33_愚者の毒、賢者の落度(ニクス)
ニクス・ターボットにとってソーラリア・アーカッシュという少女は、ある意味で恐怖の対象だ。何故なら理解不能だから。
いや、彼女自身の思想や哲学は、理解には及ばずとも把握できる。異性からちやほやされるのが嬉しい、他者からの賞賛が気持ちいい、同性からの嫉妬に愉悦を感じ、注目を浴びることに快感を覚える――。
端的に言って、俗物だ。
そんな俗物が知らぬ間に兄ハーキンスの心を掴み、王国騎士団副団長の息子たるロイジークの心も掴み、リウエ王国第三王子たるジェラルド殿下に許容されている。凡庸で俗物な男爵令嬢が、第三王子の身近に存在することを。
いつの間にか兄が籠絡されており、籠絡された兄がソーラリアに気を配るため、ニクスへ雑用を頼むことが増えた。負荷としては大したものではなかったが、不快であることには変わりない。
なんであんな女に――。
その点については気になりはするものの、そもそもニクスは男女関係について明るくない。特に明るくなりたいわけでもないので、ソーラリアのどういった点が兄や騎士の馬鹿息子の琴線に触れたのかは見当もつかない。
特に知りたいとも思っていなかったので、これまでニクスは苦々しく思いながら押しつけられる雑用をこなしていたのだが、今日も今日とて生徒会室の中で行われていた雑談の中、ニクスは普段と少し違うなにかを感じた気がした。
ソーラリアの、姉の話だ。
厳密に言うなら、彼女の姉が嫁いだ辺境伯の息子が、国境戦の英雄として国王直々に嘉賞されるということらしい。
この話をしていたときのソーラリアは、いつもと少し違った気がした。ほんのわずかな違和感で、なにがどう違ったのかはニクスにも言語化できなかったが――それでも、ニクスは己の直感に従うことにした。
◇◇◇
事務仕事に一区切りをつけたあたりでロイジークが用事を言いつけてきた。教諭の署名を忘れていたので署名をもらってきてくれ、というものだ。
そんなものは生徒会室に来る前にもらっておけばいいはずだが、王国騎士団副団長の息子たるロイジーク・アルマックはその手の効率性に欠けている。こいつもこいつで、なんだって生徒会にいるのだろうと思わなくもない。しかし難色を示そうが文句を言おうが、結局はニクスが『お使い』をすることになるのだ。
それに、今日に限っては好都合だった。
「承知しました。他に用事はありますか? 署名が必要な書類ですとか、事前に許可が必要な要件ですとか、あるなら承っておきますよ」
にこりと笑って皮肉を挟んでおくも、誰もなにも答えなかった。ジェラルド殿下は苦笑を漏らしており、兄のハーキンスはただニクスを無視したし、用事を言いつけた当人のロイジークなど、うっとうしそうに手を払うような仕草を見せる始末。
ソーラリアは――ニクスのことなど見てもいない。
唯一、アデラ・ウォルトンだけが同情的な視線を向けてくれていたが、なにかをしてくれるわけでもないので、あまり意義を感じなかった。
ともあれ。
生徒会室を出たニクスは早足で廊下を進んだ。目的地は図書室だ。署名をもらうべき相手はそこにいる。
学院の図書室は休日になると外部からの利用者が後を絶たない施設で、彼らが払う利用料だけで維持費を賄えるほどだ。生徒は無料で利用できるというのに、大半の生徒が図書室に足を運ばないのはニクスにとって信じがたい事態である。
ニクス・ターボットにとって唯一の趣味は、読書だ。
だから図書室は通い慣れた場所だし、署名をもらうべき教諭とも顔見知りである。仲良く話をするわけではないが、知己ではある。
はたして目的の人物――イーラン教諭はいつも通り、そこにいた。
図書室の入り口近くにある窓口というべきか受付というべきか、そこで静かに本を読んでいる紳士が、イーラン・ウェルリック教諭だ。
痩せていて、物静かで、姿勢が良く、少し薄くなった毛髪を後ろへ撫で付けている。歳を重ねたらこんなふうになりたい、と思うような人物。
「少しよろしいでしょうか、ウェルリック教諭」
「ターボット君か。今日は図書室の利用ではなさそうだね」
ちらりとニクスが抱えている書類入れに視線を向け、イーラン教諭は頷いた。聡明で、非常に話が早く、余計なことを言わないのが彼の美点だ。
ニクスのような若者を相手に、多くの大人はあれやこれやと教訓めいたものを言いたがるが、イーラン・ウェルリックにはそういうところがない。
そんな彼に好感を覚えているのに、今日はニクスの方から余計な話をする必要がある。そのことが、少しだけ残念だった。
「ええ。実は少し聞きたいことがありまして。ウェルリック教諭は、国境戦の英雄についてはご存知でしょうか?」
「ラインバック伯爵家の次男がそう呼ばれているようだな。近々、国王自ら嘉賞するとのことだ。私にはあまり関係のない話であるが……」
「その英雄の妻について、教諭はご存知かと思いましたが」
ニクスの言に、イーランは細い眉をわずかだけぴくりと動かした。
「存じているか否かという話であれば、知っていると答える。が、ターボット君がなにを知りたがっているのかを計りかねる」
「腹の探り合いをしても意味がありませんので端的に申し上げますが、英雄の妻となったアーカッシュ男爵家の長女について、知っていることがあれば教えていただけますか?」
「それは何故かね?」
上がっていた眉の角度が戻る。それから周囲をさっと改めるように視線が動き、熱くも冷たくもないイーランの瞳がニクスを捉えた。
手間を取らせる申し訳なさはあるが、特に引け目は感じない。だからニクスはイーランの視線を正面から受け止め、返す。
「必要だと感じているからです」
「どうして必要だと感じているのかね?」
「未来のために必要な情報だからです」
大真面目に言い切ったが、他の者に言えば一笑に付されていたに違いない。だがイーラン・ウェルリックであれば真正面から受け取るという予想があった。確信とまではいかないが――予想は外れていなかった。
「ソーラリア・アーカッシュの件か……」
と言って、眉根が気難しげに寄せられる。
なにかを知っていて、なにかを憂えている――のだろう。
「これは個人的見解になりますが、彼女は毒です。それも劇物ではなく、いつの間にか腐敗を進める類いの遅効毒だ。その毒婦に姉がいることを、愚昧な僕は今日初めて知りました。いや……今まで、彼女のことを不快に思っておきながら、さして知ろうともしていなかった、と言うべきかも知れません」
「自分も他人も、あまり卑しめるものではないな、ターボット君」
「それは失礼しました」
「ユウナレア・アーカッシュ……今はユウナレア・ラインバックだな。それがソーラリア嬢の姉の名だ」
不意に答えが飛んできて、思わず受け止め損ないそうになった。
目を丸くするニクスに構わず、イーランは眉を寄せたままで続ける。
「君たちの前の代の生徒会長が第二王子殿下だったことは知っているかね? エドワード殿下はジェラルド殿下とは違う方針をとっていた。出自や人脈ではなく、己の手足にできるであろう有能な人物を生徒会に集めていたようだ。第二王子殿下が集めた『駒』候補の中に、彼女も含まれていた」
「ユウナレア・アーカッシュ……それほどに有能だったのですか?」
「学院の成績は主席が当然のような才女だった。しかし社交にはまるで興味を示さず、貴族的な交流は非常に下手だった」
「……なるほど」
それならば『駒』として、非常に優秀だ。人脈がないということは、逆に言えば裏切られる心配がないということでもある。
が、それほどに有能で有用な人物が、第二王子殿下の部下としてではなく、英雄の妻として辺境で暮らしている――?
なにか手違いがあったか、それもまた第二王子殿下の策のうちか。
つまり、エドワード殿下の指示でラインバックの英雄と結婚した……?
いや、違う。
割くべき思考はそこじゃない。
――まあ! お姉様と逢えるかも知れないなんて、素敵だわ――
あの女はそんなことを言っていた。だが、あの女から姉の話なんてこれまで聞いたことがなかった。ましてユウナレア・アーカッシュは生徒会に所属していたというではないか。それを言うならジェラルド殿下もまたエドワード第二王子殿下の話などしなかったが、ジェラルド殿下が兄の話をしないのと、ソーラリアが姉の話をしないのは、それこそ話が違う。
逢えるかも知れない? 逢いたい? 逢ってどうする? 逢ったところで、余所の家に嫁いだ姉ではないか。国境戦についてまるで無知だったということは、嫁いだ姉の動向など気にも留めていなかったということだ。
ぐるぐると思考が回る。
そんなニクスに、イーランはわずかだけ苦笑を見せてから「こほん」と小さく咳払いをした。そしてニクスが抱えている書類入れを指差し、言う。
「なにかの用事のついでに来たのではないのかね。ならば用件は済ませてしまった方がいい。署名が必要なのだろう?」
「え、ええ……うっかり考え込んでしまいました。助かります」
未だ空転し続ける思考を余所に、ニクスの口が自動的に動き、書類入れから紙切れを一枚取り出してイーランへ渡してしまう。ぐるぐる回る思考の速度は上がり続けるばかりだ。何故。どうして。もし。だとすれば。ならば。しかし何故。
「私は貴族的政争と距離を置きたいがために、この場所に勤めることにしたが――結局は未来の政争を見せつけられるような場所だった」
ふと、自嘲するような言い方をイーランはした。またぐるりと図書室を眺め回すので、つられて周囲を見回すが、利用者など一人もいない。
だから、お喋りに付き合ってくれたのか。
「私の見た限り、ジェラルド殿下が自らの力を高めないよう立ち回っているのは、第一王子ヴィクトル殿下のためだ。同様に、エドワード殿下が己の力を高めようとしていたのも、ヴィクトル殿下のためだろう。そういう意味では、我が国の未来は暗くない。殿下たちはそれぞれに有能だ」
しかし――と、吐き捨てるようにイーランは言った。
「若い彼らには判らないだろうが……それに、有能であるターボット君にも想像は難しいかも知れんが……多くの人は、愚かだ。それを見誤ると、躓くことになる。気をつけるといい」
そうして署名された書類が差し出され、図書室の主の口が閉じられた。
ぐるぐると回り続ける思考のせいで、ニクスはイーランに礼を言ったのかどうかすら覚束ないまま、廊下を歩いていた。
なにか、ひどく手遅れなナニカがそこにあるような――。
そんな気がした。
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