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32_学院の生徒会(ニクス)





 ニクス・ターボットは王都の学院に通うようになってから、兄であるハーキンスのことが嫌いになった。


 ニクスは妾腹ではあるが、ターボット侯爵家の次男だ。生まれたときから兄の補佐をすることが定められており、幼少の頃からそういう教育を受けてきた。だから王都の学院に入ること、それ自体は嫌でもなんでもなかった。

 ただの義務だ。

 実際、学院で受けられる教育などニクスにとっては既知のものが大半であり、学ぶべきことなどほとんどなかった。


 つまりは兄であるハーキンスの補佐をするために入学したのだ。

 なにしろそうするために生まれ育ち、育てられてきたのだ。貴族の義務、なんて言葉があるが、ニクスに課せられた義務はふたつだ。


 兄の補佐をすること。

 ターボット家のために生きること。


 そういう意味では、国や領民のために生きねばならない父と兄のことは、きっと生涯理解できないだろうな、なんてことを思ったりもする。

 ニクスにとって『すべきこと』は極めて限定的で、それさえやっておけばとりあえず生命の保証があり、好きなだけ読書ができる。悪い人生じゃない、とさえ思っていた。入学するまでは。


 兄であるハーキンス・ターボットのことを、ニクスは別に好きでも嫌いでもなかった。侯爵家、しかもターボット侯爵は王の宰相をしている名門中の名門だ。そんな貴族家の嫡男として生まれ落ちたターボットは、ニクスとは違った意味で厳しく育てられてきた。彼に課せられた義務も、ニクスと遜色ないくらいには大変だったはずだし、それは今現在も続いており、兄はきちんとそれをこなしている。


 いや――こなしていた、か。

 過去形だ。今の兄は、ニクスが知っている兄ではない。


「……だとしても、やるべきことは変わらない、か」


 ぼそり、と。ほとんど何処にも届かないような小声で呟き、ニクスは書類を小脇に学院の廊下を進む。

 どんどん歩みが鈍くなるのを自覚するくらいに、目的地へ辿り着きたくない。ひどく憂鬱だったが、与えられた役割を放棄するには至らない。


 我知らず、何度も溜息を吐きながら廊下を進み、階段を上がって三階へ。

 学院は貴族たちが通う建物であり、駆体と敷地の広さは王城に迫るほどだが、構造はかなり質素だ。わけの判らない装飾的な柱が立ち並ぶこともなく、なんだかよく判らない絵がかけられていることもない。その単純さは、ニクスの好みだ。


 物事は単純な方がいい。


 そういう意味では――辿り着いた生徒会室の内側は、ニクスにとって実に複雑怪奇な場所になっていた。



◇◇◇



「あら、ニクス。今日は遅かったのねぇ。ハーキンス様はとっくに仕事をしていらっしゃるのだから、弟の貴方はもっと見習うべきだと思うわ」


 扉を開けるや否や、ふわふわした金髪の女がそんなことを言った。

 口調自体はおっとりとしていて、その声音は聞き心地好い。が、内容はハーキンスを持ち上げるためにニクスを下げる、というだけのものだ。


 彼女の名は、ソーラリア・アーカッシュ。


 アーカッシュ男爵家の次女で、本来であれば学院の生徒会室に我が物顔で座していられるような存在ではない。身分というよりは能力の問題として。


 端的に言って、ソーラリアは普通だ。

 莫迦でもなければ賢くもなく、貴族の女子として必要な交友能力も人脈も秀でてはいない……というか、尖りすぎていて多くの他者をまとめるのに向いていない。もちろん剣も魔法も使えない。


 とはいえ、彼女にも武器はある。とびっきりのが、ひとつ。


「まあ、そう言ってやるな。ニクスには小用を言いつけてあった。ニクス、要件は済ませたのだろう?」


 机について書類にペンを走らせていた兄、ハーキンスがそんなことを言った。いつもの兄の口調だが、ニクスにとっては違和感がある言い方だ。

 昔の兄なら、もう少しだけ違った言い方をした。


「なんだ、教諭から書類を預かってきたのなら、さっさと殿下に渡せ。閉めた扉の前で突っ立っている趣味があるわけでもないのだろう」


 窓際で腕組みしてふんぞり返っていた背の高い男が言う。ロージーク・アルマックというのが彼の名だ。王国騎士団副団長、アルマック伯爵の次男。


 そして殿下――ジェラルド・ユーグス・リウエスト。

 リウエ王国第三王子。現生徒会長。


 入って真正面の一番立派な机に座しているジェラルド殿下は、一通りのやり取りを黙って聞いていたが、とりあえず全員が口を閉ざしたのを確認してから、とんっ、と人差し指で机を叩いた。


「ご苦労。書類は私にではなく、ウォルトン嬢へ」


 ほんのわずかに言葉を発するだけで背筋が伸びる、そういう雰囲気と話し方は、やはり王家の人間だ。ニクスがそうあるように育てられたみたいに、きっとジェラルド殿下もまた『そうあるように』育てられたのだろう。


「はい」


 と頷き、抱えていた書類をアデラ・ウォルトンの机へ。

 生徒会室でただひとり存在感を消すようにして書類に向かってペンを走らせていた地味な女の子は、ニクスが机に書類を置いた瞬間、注意して見なければ判らないほど小さく目礼してくれた。


 いつもお疲れ様――という動作。

 本当にそういうつもりなのかどうかは、ニクスには判らないが。


 ともあれ、ニクスはニクスで用意されている自席へ着き、未処理の書類が増えているのを確認してから、胸の中で溜息を吐く。明らかにハーキンスの分とロイジークの分が重ねられていたからだ。


 当然、そのことを知っているであろうジェラルド殿下は当然のような顔をしている。何故なら、二人に任せるよりニクスにやらせた方が早く正確なのを理解しているからだ。実務なぞ、できる者がやればいい。


 残念というべきか、ニクスもそこに異論はない。


「そういえばソーラリア。おまえの姉が嫁いだ先の辺境伯とその息子だが、もうそろそろ王都に来るらしいと聞いたぞ」


 ふと、騎士のバカ息子が言った。口調からして、他愛もない世間話を思い出した、というふうだ。


「お姉様の……? どうして王都に?」


「国境戦の終結があっただろ。あれで一番活躍したのが、辺境伯の息子なんだとか聞いたぜ。戦争の初期から前線に出張りっぱなしで、なんとそのまま生還したって話だ。オレの家でも騎士団でも、かなり話題になってる」


「……ラインバック伯爵家、だったかしら」


「そうそう、それだ。その国境戦の英雄の活躍を、国王直々に褒めてやるってわけで、辺境からわざわざ王都までやって来るはずだ。確か、その辺境伯の息子に嫁いだのが、ソーラリアの姉だったよな。もしかすると夫婦で来るかも知れんぜ」


 家族と逢えるかもな、というロイジークなりの親切心が見えたが、ようはソーラリアの気を引きたかったのだろう。

 気を引く、という意味では成功したようだった。


 普段は能天気に微笑んでいることの多いソーラリアの表情がわずかに陰り、一瞬だけ窓の外へ視線を向けた。

 射抜くよう――というより、斬りつけるように。


 だがそれは一瞬だ。窓の外から視線を戻したソーラリアは、ぱっと色づくように微笑んで、嬉しさを表すみたいに両手を広げた。


「まあ! お姉様と逢えるかも知れないなんて、素敵だわ。ねえ、ジェラルド様、今の話をご存知でしたの?」


「もちろん把握はしていた。が、アーカッシュ嬢の姉君が英雄殿と一緒に王都へ来るかどうかは、把握していない」


「きっと来ますわよ。だって、姉さまは一度だって会ったことのない伯爵家の御子息様と結婚してしまわれたのよ? 貴族の子女として義務を果たす――私にはとてもできないわ。あのときは、旦那様になる方は絶対に死んでしまうと誰もが思っていたはずだもの。義務だけで結婚なんて、私にはとても、ね」


 褒めているような、貶しているような、曖昧な口ぶりだ。

 聞きようによっては卑下にも聞こえるのだが、それだけはないだろう。


「ではソーラリアにとって、結婚に必要なものとは、義務以外にはなんだい?」


 浮ついた科白を口から吐き出す兄ハーキンス。

 昔は、そういう性格ではなかったのに。


「もちろん、愛ですわ」


 とびっきりの笑顔でソーラリアは言って、続けた。


「私だって一応は貴族の娘ですから、それだけあればいいだなんて申しませんわ。でも、それなしで殿方と結ばれるなんて、私には考えられません」


「君の旦那になる男は大変だろうな」


 何処か余裕のある笑みで兄がそんなふうに言う。自分であれば、その大変さを苦にしない……と言いたいのかどうかは、やはり判らない。

 だが、兄がソーラリアに対して特別な扱いをしていることだけは、明瞭だ。それは客観的事実だ。


 ろくに事務能力もない、広い交友関係もない、特殊な人脈もなく、一部の人間には嫌われてまでいる男爵家の次女を生徒会に入れて、ただそこにいることを許している。実際、ソーラリアは雑務のひとつもしないのだ。


 許しているのは、兄ハーキンスだけではない。騎士団副団長のバカ息子であるロイジークも、第三王子であるジェラルドも、ソーラリア・アーカッシュがただそこにいることを許している。


「いえいえ、そんなことはありませんのよ、ハーキンス様」


「ふぅん? それはどうしてだい? 君に十分な愛を注ぎ、十分な生活を送ってもらうには、男爵程度の家ではなかなか難しそうに思うが?」


「だって、私は注がれた分だけ、愛を返しますから」


 と、ソーラリアは言った。

 兄はその答えが聞きたかったとばかりに頷いたし、ソーラリアの言葉を聞いていたロイジークなどは感銘を受けたような顔をしていた。ジェラルド殿下は……ふっ、と小さく笑っていたようだが、どういう種類の笑みなのかは判然としない。


「では、返された愛をまた返せば、愛で満ちるというわけだな」


 兄が言う。

 できることなら鼻で笑ってやりたかった。


 貴方の『やるべきこと』は、能力に欠けた男爵令嬢を口説くことではないはずだろう。そもそも兄には婚約者がいる。騎士のバカ息子にだっているはずだ。ジェラルド殿下には……聞いたことがないが。


 学院に入学するまで、兄はこんな男ではなかった。

 ではどんな男だと聞かれると、実はそれほど親しくないので、そこまで詳しく説明もできないのだが――とにかく。


 ニクス・ターボットは、ソーラリア・アーカッシュが嫌いだった。





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