31_王都への道中(ユウナレア)
ふと、ユウナレアはゲイルが生還した当時のことを思い出した。
国境の戦場からラインバック領都まで、計算上では最短で八日かかるはずの道程を、どういうわけか第三大隊は五日で踏破したのだ。
なんでそんなに速いんだ、と当時は思ったが、こうして彼らと――もちろんユウナレアは馬車に乗っているだけだが――同行してみれば、その理由の一端が垣間見えた。
通常、移動速度というものは人数に比例して遅くなる。これは少しでも貴族教育を受けたことのある者なら誰でも知っている常識だ。王都の学院でも、当然の前提として語られていたくらいに。
その常識が、こと第三大隊では通用しなかった。『数による移動速度の減衰』が異様に少ないのだ。おそらく国境戦で淘汰を繰り返されて生き残った第三大隊だから、という身も蓋もない理由だ。
行軍に遅れるような者は、とっくに死んでいる。
もう一点、第三大隊の移動は常にぎりぎりまで続けられるというのが、おそらく他のあらゆる『隊』と大きく異なるだろう。
例えば夕暮れより少し前に宿場街へ到着したなら、普通の部隊ならそこで一泊する。日が落ちてからはいずれにせよ行軍できないのだから、普通に考えれば街で泊まるのが効率的だ。しかし第三大隊は、ぎりぎりまで進む。
普通の隊が一日で五だけ進むところを、六や七まで行く。これを何日か繰り返せば、どんどん差が開くという寸法だ。
「こういう移動をするのは、疲労が問題になるのでは?」
普通に考えれば、そのはずだ。
ユウナレアは内心でなにかを期待するような気分で、書類上の夫へそんな問いを浮かべた。箱馬車から降り、星空の下で焚き火にあたり、第三大隊の面々が用意した夕餉を食べながら。
「安全な街道を進むだけで疲れるわけがないだろう」
なにを言っているのか判らない、とばかりにゲイルは首を傾げた。
言葉には言葉以上の意味合いが込められておらず、物を知らぬ女に対する見下しや嘲りのような感慨が一切含まれていない。
「……お言葉ですが、おそらく普通の部隊は『移動』によって消耗します。旦那様と旦那様の部下たちが特別かと思います」
「そうか? ふむ……そうかも知れんな」
持論に固執することなく、ゲイルは少し考えるようにしてから普通に頷いた。それから器の中のスープを胃に収め、ほぅ、と息を吐き、続けた。
「確かに、考えてみれば俺たちの移動は、移動というより作戦行動だったからな。自軍方面へ引き返すときでさえ、敵襲を警戒しない瞬間がなかった。引き返した合流地点が敵に制圧されていることもあった」
あれは酷かったな、とゲイルはユウナレアの後ろに声をかけた。
そこに控えていた目隠しの魔法士イニアエスは、どういうわけか遠い故郷を懐かしむみたいに微笑みながら頷いた。
「ええ、ゲイル様。あれは最悪でしたわ。生存した味方と、味方のふりをした敵の区別がつきませんでしたし、こちらは二日も飲まず食わずで拠点に引き返したというのに、物資は根こそぎ奪われた後でしたものね」
地獄絵図だ。
ユウナレアはどんな顔をすればいいのか判らず、無表情のまま、はぁ、と頷くしかなかった。否定も肯定も促しも、自分の内側から発生するすべてが彼らの『現実』を前にしては、あまりに空々しく思えたからだ。
翻って――どうしても考えてしまう。
自分が対峙していた『現実』は、彼らと比べてしまえば、ひどく矮小ではないか。確かに死ぬほど嫌なことだった。それは間違いない。けれど結局、ユウナレアは死を選ぼうなんて思うことすらなかった。
もちろん、性悪の妹であるソーラリアを殺してしまおう、なんてこともユウナレアは考えなかった。脳裏をよぎったことは何度もあるが、現実的に実行しようとしたことは一度もない。
その程度の真剣さだったのだ――なんて、そんなことをゲイル・ラインバックは言ったりしないだろう。
けれど、このときユウナレアは、彼に対する引け目のような気持ちを、胸の内ではっきりと自覚してしまった。
私は、ぬるま湯の中で喘いでいたに過ぎないのだ。
彼のように溶岩の中を泳いでいたわけじゃない。
……いや、普通の人間は溶岩の中を泳げば死ぬのだ。どう考えたって死ぬだろうと誰もが思っていた。だからゲイル・ラインバックとの婚姻が選択肢に上がり、それを選ぶことにした。
「旦那様は――」
ふと、自分でもよくわからない気持ちが口から零れ出た。
間抜け面で口を開いたユウナレアに、ゲイルはわずかだけ首を傾げた。しかしユウナレア自身、なにかを考えて口を開いたわけじゃない。
だから、こんなことを言うなんて、自分でも思っていなかった。
「――私のことを、甘っちょろいと思いますか?」
なんでそんなことを?
それは、その前段の思考がそうさせたのだろう。そのくらいの推察はできる。だが、わざわざそんな科白を口から垂れ流すなんて、ユウナレアは自分自身に激しい幻滅と羞恥を覚えた。
こんなの、弱さを見せつけて男の気を引く色恋女じゃないか。
「……甘っちょろいとは、どういう意味だ?」
「いえ、失礼しました。なんでもありません」
慌てて言うが、どうやらゲイルの興味を引いてしまったようで、いつもなら素っ気なく「そうか」と頷く書類上の夫は、ユウナレアから視線を切ってくれない。
ふむ、とひとつ頷いて、改めてユウナレアを見る。
他意のない、硬質な瞳。
「なんでもないということはないだろう。だが、意味がよく判らん。悪いが、もう少し判るように話してくれ」
「いえ……本当になんでもないのです」
「言おうと思っていたことを胸の内に秘めたまま死ぬやつを何人も見てきたぞ。本当に嫌でなければ、言いたいことを言え。別に怒ったりはしない」
きっと本当になにを言われようが怒らないだろう。
それは単にゲイルがユウナレアに強い感情を抱いていないからだ。親しい人に裏切られれば傷つくだろうが、見知らぬ誰かはそもそも裏切ることすらできやしない。
もちろん、裏切りたいわけじゃない。
傷つけることすらできないのは、むしろ有り難い。
そのはずだ。
ふぅ――と息を吐き、夜空を見上げる。
きらきらと瞬く、他人事みたいな無数の星々。
心が静まるのを待ってから、ユウナレアは言う。
「旦那様の境遇に比べて、私が『辛い』と思っていた境遇は、なんてぬるい場所だったのかと、そう思ったのです。命の危険もなく、自由に生きられる余裕があった。事実、私は自身の未来を自分で選んで、旦那様の妻となりました」
死ぬような思いなんて一度もしていない。
命の危険なんて、感じたこともない。
「ふむ」
とゲイルは頷いた。
笑うでもないし、蔑むでもなく、もちろん怒りもしない。
「『甘っちょろい』と思うか、だったな。別に思わない。俺には俺の境遇や事情があり、決断があった。おまえにもそれがあった。それだけのことだろう。なにはともあれ、おまえは選んで決めた。なにも選ばずなにも決めないやつは、流された先で恨み言を垂れ流して死ぬ。おまえはそうじゃない」
「嫌ではありませんでしたか? 腹が立ったのではありませんか? 私は、あなたが死ぬだろうと考えて、あなたと結婚することにしたのですよ?」
「今のところ、別に嫌ではないな。腹を立てたかといえば、少しは立てたかも知れん。しかしいずれにせよ、伯爵家の息子が政略結婚をすることになるのは、おかしな話じゃない。知らぬ間に結婚させられていたのは、ややおかしいが」
「……報せるべきでしたか? 戦場の旦那様に、私との婚姻を」
「『たられば』の話をしてどうする。知らなかったし、後で知った。ここに反省すべき点があるのかないのか、俺にはよく判らん」
「……それは、そうかも知れません」
確かに、戦争中のゲイルへ婚姻を事後報告したところで、なにかが変わっていたかといえば、たぶん変わらなかっただろう。おそらくだが、ゲイルの気分もそれほどは変えられないはずだ。そんなことよりも目の前の戦いの方がはるかに重要かつ深刻だったのだから……。
「それに」
と、ゲイルは続けた。ユウナレアを見つめたままの瞳の中に、ほんの少しだけ好奇心のようなものが見えた。
「おまえを追い詰めたあれこれに、少し興味がある。優秀だったユウナレア・アーカッシュを、おまえの義妹は追い詰めたわけだ。周囲が間抜けだったのか、それとも義妹が上手だったのかは知らんが、見られるものなら、少し見てみたいと思うぞ。理解できるとは思えんがな」
「……私が間抜けだっただけですよ」
今にして思えば、ソーラリアがどのように立ち振る舞おうが、父と兄が彼女たちに狂わされようが、もっと違った遣り方があったのだ。そしてそれをユウナレアは選べなかった。
土壇場まで、彼女たちの外側へ逃げることすら考えられなかった。
「そうかも知れんな。ならば、それは俺も同様だ」
言って、どうしてかニヤリと口端を吊り上げる。
戸惑いを示すしかないユウナレアに構わず、ゲイルは続けた。
「俺だって、あんな場所を逃げ出す機会も手段も無数にあった。俺は、わざわざ好き好んであの場所に留まり、あそこに魂を置いてきた。とんでもない間抜けではないか。いくらでも逃げ出せた。それこそ、中央の連中の思惑通りにな」
普通に考えれば絶対に死ぬはずの場所。
であれば、普通に考えれば、そんな場所からは逃げるはずだ。
あの泥沼の戦争を長引かせたかった者からすれば、ゲイルが戦場から逃げ出すことだって想定内だったはずだ。ゲイルが生き延びること、それだけが唯一想定外だった。誰の想定も超えていた。ゲイル自身の想定でさえ。
地獄が育てた、一匹の鬼。
そんな夫と――ユウナレアは、これから王都へ向かうのだ。
我慢するな、という当代伯爵のお墨付きで。
「旦那様。私が嫌になったら、すぐに仰ってくださいね」
我知らず微笑みながら、ユウナレアはそんなことを言った。
この人の邪魔になりたくない、と思ってしまった。今更――そう、今更だ。とっくに彼の人生の邪魔な異物として身の内に入り込んでしまったというのに。
鬼が暴れる邪魔をしたくない、なんて。
思ってしまった。
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