28_天使の選択(カート)
カート・ラインバックは、まだ八年しか生きていない人生で初めて、極めて真剣に物事を考えていた。普段の知的探求や家庭教師は、こういったときのためにあるのだと確信できる、そういう頭の使い方を、カートはしていた。
まずは「こうなるといいな」という未来の設定。
目標到達地点、あるいは目的だ。なにをするか、なにをしてはいけないのか、それを考えるためには、そもそも目的が必要だった。
カートが欲しい未来、その一。家族と共にラインバックへ戻ること。
家族会議の時点でかなりその未来が怪しそうだな、とカートは思った。断片的な情報からの予想になるが『中央貴族』はラインバックと反りが合わない。
なので、どうにかして兄ゲイルの挙動を誘導し、望む未来を引き寄せる必要がある。しかし、例えば「兄さま、あの貴族は絶対に殴っちゃ駄目だよ」なんて誘導は下策も下策だ。殴るべきと判断したとき、兄は絶対に殴るからだ。
こう考えるとゲイル・ラインバックがあまりにも傍若無人な危険人物に思えてしまうが、たぶん、ある意味ではそうだ。こちらの道理とあちらの道理が噛み合っていないので、あちらの道理ではこちらが狂人に見えるだろう。
さておき、だ。
ただでさえ面倒事が起きるのが確定しているような状況の中、カートに目的はもうひとつあった。欲しい未来、その二。ユウナレアと共にラインバックへ戻る。
「カート様、オレたちは逆に奥様のことを知りません」
「カート様、アタシたちはゲイル様の知っていることを話しましたけれど、必要な情報ということであれば、奥様のことを教えてくださいますか?」
双子の姉弟、ジェニーとダニーがそんなことを言った。
家庭教師の時間に同席させてくれとゲイルに頼まれて以降、なんだかんだでカートは二人とよく話をする間柄になり、距離感はあるものの、友人といっていい関係に落ち着いたように思う。
「姉上のことかぁ……」
カートは寝台の上であぐらをかき、天井を見上げるようにして記憶を辿る。ユウナレアがラインバックに来たのはカートが六歳の頃で、当初は『兄の妻』という立場が不思議だったように思う。だって、二人は一度たりとも会ってないのだ。
「僕が最初に感心したのは、姉上の知性だね。きみらも兄さまを知ってるからなんとなく判るだろうけど、ラインバックの男子は難しいことを考えるのが苦手だ。父様も実は単純な理屈で生きているし、ガーノート兄さまも大分近いと思う」
ゲイルは――今はカートの知っている理屈の外側に『心の芯』を置いているようなので理解と把握は難しいが、それでも、小難しいことを考えていないのは、感覚的に判断できる。
「確かに隊長も、なんというか……難しくはないですね」
「でも、カート様。ゲイル様は、判断を間違うことがとても少ないです。難しいことを考えていないようにみえて、攻め時も引き際も……アタシの知っている限り、間違ったことがありません」
「僕は戦場のことを知らないから、そこについてはなんとも言えないけど……物事ってさ、突き詰めていくと二択になるんだよ」
と、カートは言った。
なんだかよく判らない、と首を傾げる双子に、カートは続ける。
「『やる、やらない』『行く、行かない』『殴る、殴らない』『はい、いいえ』……いろんな場面でいろんな決断をするけど、最終的には二択でしょ」
なるほど、と頷くジェニーとダニー。
カートも首肯を返し、親指で自分の胸を叩いて見せる。
「これがラインバックの男だよ。問題を単純に把握して、是非を判断する。ラインバックにはユウナレア姉さまが必要だ。いて欲しい。だから、いてもらえるようにする。兄さまは――うん、たぶんそんなに嫌がってないと思う」
そして別にユウナレアを愛してもいないだろう。
これに関しては、後々の進展があるかないか、なければカートがお節介を焼いてみるのも考えるが、それはひとまず後の話だ。
「ラインバックを豊かにしてくれるから、ですか?」
と、ダニーが問いを浮かべる。
双子の弟の方は、短い付き合いの中、常に慎重な考え方を示してくれた。軽々しい断定をせず、断言をせず、決めつけない。
「それもある」
と、カートは答えた。
「奥様のことが好きだから……ですか?」
というジェニーの問いには、さすがに苦笑を返した。問題を単純化するのは判りやすくていいと思うが、さすがに単純化しすぎだ。間違ってはいないのだが。
「そうとも言えるけど……たぶん、姉さまは王都に戻らない方がいいと思うんだよ。姉さまが実家でひどい扱いを受けていたのは、聞いている?」
「いえ……」
「知りません」
「会ったこともない兄さまと結婚したのは、ものすごく不本意な相手と婚約を結ばされそうになったから……らしい。先に結婚しちゃえば、変な相手と婚約させられることがなくなるからね。さすがに僕には誰も詳しいことを言わないけど、たぶん外してないと思う」
「隊長が死ぬ予定だったから……ですか」
「そうだね。これについては、いろいろ思うところはあるだろうけど、理屈で考えてね。たぶん姉さまも理屈で考えてた」
「カート様が、奥様を守りたがっていることは理解しました。奥様は……その、ラインバック流の『二択』では物事を考えていない、ということでしょうか?」
逸れそうになっていた話を、ジェニーが修正してくれた。
「そうそう、そういう話。物事は単純化すると、いろいろ取りこぼす。姉さまは物事を複雑なままにあれこれ考えられるんだ。逆に、単純な是非に対してはちょっと反応が鈍いときもあるけど……うちには得難い人だと思う」
「カート様。オレが聞いた限り、今の話からはふたつの考えが混ざっているように思えます。一方では、奥様が有用だからラインバックに残したいとカート様は仰っています。もう一方では、奥様を心配しているから王都に残したくないとカート様は仰っています」
「……まあ、そうだね。そうなるよ」
そこは認めないわけにはいかなかった。
ぽりぽりと頬のあたりを指先で掻くカートに、ジェニーが更に問う。
「つまり、カート様は、奥様のことが好きなのですよね?」
「……まあ、そうとも言える」
認めないわけにはいかなかった。
そうしないと話が進まない。
「じゃあ、どうして奥様のことが好きなのですか?」
含みも他意もない、単純な疑問符。
回答は簡単で、かつ難しかった。
「……姉さまは、褒めてくれたからね」
ラインバック家の者は、ひとえにカートがカートだから優しかったのだろうと思う。それが悪いとは言わない。むしろ幸せだ。適量の愛情を注がれ、満足に育てられた自覚がある。家族から迫害されたユウナレアとも、貴族に売られて人間爆雷として扱われたジェニーとダニー姉弟とも、まるで違う。
でも、カートは嬉しかったのだ。
彼女の言葉を覚えていたとき。家庭教師の話を上手に噛み砕けたとき。ユウナレアが部屋を訪ねてくれて、彼女といろんな話をしたとき。彼女の智の欠片を拾い集め、自分なりに組み立ててみせたときも。
――凄いわね、カートは。
ユウナレアはカートを優秀だと感じたから褒めてくれた。濡羽色の長い髪をわずかに揺らして、怜悧な瞳を少しだけ細めて。
あぁ――と、不意に気づく。
ユウナレアは、そう思っていないときは、そう言わないのだ。そう思ったからそう言った……これは敬愛する兄、ゲイル・ラインバックと同じだ。
兄もまた、凄いと思っていないときは「凄い」なんて言わない。
「そうか、姉上と兄さまは、ちょっと似てるんだ」
◇◇◇
結局のところ、対策は場当たり的になるだろう――というのが、カートの結論だった。そもそもゲイルの行動次第で状況が変わってしまうのに、そのゲイルの行動が読めないのだから事前の計画はむしろ邪魔だ。
双子に聞いてみても、やはりゲイルの行動を読むのは不可能ではないか、とのことだった。
「だって隊長、十人くらいで敵の前線基地に突っ込んだりするんですよ。しかもその日の夕方にぱっと思いついて、夜に出撃するんです」
「かと思えば、せっかく奪った敵の前線基地を焼き払って前線を下げたりもするんです。食料だけ奪って」
それは付き合う方も大変だっただろう。カートは深く同情したくなったが、むしろそうでなければ『狭間の泥沼』を四年間も生き抜いたりはできなかったのかも知れない。少なくとも、まともな部隊はあらかた全滅しているのだし。
あれこれ話をしているうちに時間が経過し、軍部で用事を済ませたマーヴィが部屋を訪ねてくれた。
「どうも。うちのガキ共が迷惑かけちまって申し訳ありません」
ぺこりと頭を下げるマーヴィは、領軍の軍服とは少し趣の異なる服を着ている。あくまでゲイル直属の部下、ということなのだろう。
マーヴィは小脇に抱えている書類束を机の上へ置き、寝台の上にあぐらをかいているカートの前まで近づいてから、わざわざ片膝立ちになった。まるで主に仕える騎士のようだが、人相が悪すぎてなんだか面白かった。
「カート坊っちゃん、例の資料を用意しておきました。結構な量になりますが、二日後に出発するのは、ご理解なさってますか? 当初の予定より出発を早めるようでしたが……さすがに、ちょいと量が……」
「マーヴィ。例の資料って?」
「莫迦っ、ジェニー! 偉いさんと話をしてるときに割り込むな! カート様がお優しいからって寝惚けてんじゃねぇぞ」
気安く口を挟んでしまったジェニーに、思いの外しっかりと叱責が飛んだ。
しかしこれは優しさだ。カートの前で明確に怒ってみせることによって、カートがジェニーに対して注意する事態を避けた。かわりにカートの前で怒鳴るなんて無作法をしたマーヴィの立場が悪くなるかも知れないのに。
第三大隊は、やはり兄さまの家族なのだ。
そう思うと胸の内が暖かくなる。『狭間の泥沼』は地獄に違いなかっただろうけれど、孤独だったわけじゃない。
カート自身が兄の近くにいられず、あの戦争に関してはなんの役にも立っていないのが、少し悔しくはあるけれど。
「いいよ、マーヴィ。畏まる必要はないと二人に伝えてあるんだ。僕がマーヴィにそれを伝えてなかったのは、僕の落ち度だよ」
「申し訳ございやせん、坊ちゃま」
「……申し訳ありません、カート様」
「うん。それでね、ジェニー。ダニーも。その資料は、リウエ王国の歴史のまとめだよ。王族と貴族の関係を、できるだけ覚えておこうと思ってさ」
家庭教師のミュエル婦人から、ざっとした王国史は学んでいる。しかしカートが欲しているのは、現在の貴族たちの関係だ。
無論、そんなものは辺境で正確に知ることなど叶わない。なので、現在を知るために過去を知ろうと思っただけだ。ラインバック辺境領でさえ、ラインバックの分家がいくつもあり、領内で都市の統治を任されている貴族もいる。
情報が必要だ。
目の前の出来事が、はたしてどのような問題であるのかを理解せずして、二択を選ぶことなどできやしない。
「二人にも手伝ってもらうよ。僕が全部覚えればそれで済むけど、覚えきれなかったら補ってもらいたいから、さ」
にっこり笑ってそう言えば、ジェニーとダニーはおろか、何故かマーヴィまでもが少し引いたような顔をしていた。
でも、やるのだ。
何故なら『やる、やらない』の二択は、もう選んでいるのだから。
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