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抱きしめさせてください。  作者: うわの空
その裏側で
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07 母親

 学歴、という言葉に私はうんざりしていた。学歴なんて関係ない、という言葉をよく耳にするが、逆にいうとそれだけ関係があるということだ。関係がないのなら、はじめから話題にすらならない。



「離婚してくれないか」


 彼の言葉に、私は俯いた。この人にとって大事なものは社会的地位と名誉、それから金だけなのだと気付いたのは、いつからだっただろう。


「――どうして?」


 それでもあえて確認する。

 それでもあえて確認していることに気付いている彼は、嗤った。


「君にも子供にも、興味がなくなったからだよ。家族ごっこはもう十分だ。話のレベルがあわない人間と一緒に生活するのは、息が詰まる。君だって、分かるだろ?」


 ――話のレベルがあわない人間。


 有名国立大学を卒業し、大手企業に就職、エリート街道まっしぐらの彼。

 大学には行かず、中小企業に就職していた私。

 どうやって知り合ったのかは、よく覚えている。

 けれどどうして好きになったのか、どうして一緒になったのかは、もう忘れてしまった。


 

 興味をなくした、――愛し方を忘れたのは、私も同じだった。



 彼は自分の欄だけ埋めた離婚届をテーブルに置きながら、事務的な口調で話を続けた。


「歌子の親権は、君にやる。どうせあの子も、大した人間にならないだろう。学のない、無能な人間に構う暇なんて、僕にはないんだよ。安心してくれ、養育費なら――」

「いらない。あなたのお金なんて、いらない」


 貰うべきなのは、知っている。彼と結婚してすぐに会社を辞めた私には、生活費のあてがなかった。それでも、いらないと突っぱねた。

 これが単なる意地だということは、分かっていた。




 小さい歌子こどもを抱えていることもあって、初めはパートで生計を立てた。綱渡りのような、ぎりぎりの生活が続いた。

 やがて歌子も大きくなり、私は本格的に就職先を探し始めた。――けれど。


「学歴」


 嫌いな単語を、わざと口にしてみた。学歴なんて関係ないなどと言いながら、履歴書には書かされる。確認される。学歴でなく、若さも。両方持ち合わせていない私は、途方にくれた。そうして結局、パートを二つ掛け持ちする道を選んだ。


 夫にも、会社にも、世間にも、馬鹿にされている気がした。




 ――あれは、いつだっただろう。


 娘の歌子が、冷蔵庫にテスト用紙を貼り付けていたのは。

 よくできましたと書かれた、100点満点のテストを。


「……頭がいいのね」


 既に眠ってしまっている娘に向かって、私は笑いかけた。


「頭がいいのね、あんたは。――……私じゃなくて、あの人に、似たの?」


 自分の言葉に、背筋が寒くなる。

 私はテストをはがすと、ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。



 次の日も、その次の日も。歌子は冷蔵庫にテストを貼り付けた。いずれも、100点満点のテストだ。

 まるで、私のことを嘲笑っているかのように。



『学のない、無能な人間――』



「自分は違うって言いたいの……!?」


 毎日毎日、テストをはがす。丸める。ゴミに捨てる。


「自分は優秀だって、見せつけたいの!? 母親おまえとは違うって言いたいの!?」



 そのうち、テストの内容すら確認しなくなった。冷蔵庫に紙が貼られているだけで、吐き気がした。

 子どもと話すのも億劫だった。家に帰ることすら。



 やがて、テストが貼りだされることはなくなった。

 その代わり、娘が家にいない日が増え始めた。私が帰宅するのも深夜だというのに、娘の姿はない。

 ――中学生になったから、好き勝手に遊んでいるのだろう。そう思って、ごまかした。ごまかしたまま、何年も見て見ぬふりをした。

 冷蔵庫に貼り付けられていた、テストみたいに。



 娘が本格的に『家出』をしたのだと気付いた時には、もう遅かった。

 八つ当たりしていただけなのだと気付いた時には、もう娘はいなかった。


 学歴を一番気にしていたのは、誰でもない私だった。

 それに気付いた時にはもう、私は独りだった。



 残っていたのは彼女の部屋。それから、冷蔵庫にひとつだけ残された、チョコレート菓子。

 私はチョコレートを手に取ると、歌子の部屋に向かった。椅子に座り、出窓から見える景色をぼんやりと眺める。――机に置かれている熊のぬいぐるみと、目があった気がした。

 ボーダー柄のセーターに、紺色のジーンズ。白色のマフラー。栗色の毛。

 確か、三歳の誕生日に買ってあげた、外国製のテディベアだ。


「……まだ捨ててなかったのね」


 ぬいぐるみを見ながら、私はぽつりと呟いた。持っていたチョコレート菓子をぬいぐるみに見せながら、尋ねてみる。


「――あの子、これもまだ好きだと思う?」


 ぬいぐるみが小さく頷いた、――気がした。




 その日から毎日、私はチョコレート菓子を一箱だけ買って帰るようになった。あの子がいつ帰ってきてもいいように。毎日毎日、冷蔵庫にチョコレート菓子を入れ続けた。

 

 ――まるで、毎日テストを貼り続けていたあの子みたいに。


 帰宅後、冷蔵庫にチョコレートを入れて眠る。起床後、冷蔵庫の中を確認する。出勤する。

 退社後、コンビニでチョコレートを一つだけ買う。帰宅してすぐ、冷蔵庫の中を確認する。――昨日入れたチョコそれがまだ残っていることに、失望する。今日買ったチョコレート菓子を冷蔵庫に入れて、昨日の分は自分で食べる。


 甘ったるいチョコを食べながら、テストを貼り付けていた時の娘の気持ちを考えた。




 その日、帰宅した私はすぐに異変に気付いた。


 鍵の掛かっていない扉。玄関にある、自分のものではない靴。


 私は冷蔵庫の中も確認せず、娘の部屋に向かった。手に持っていたチョコレートの箱が、ガラガラと音を立てる。その音に気付いたらしい人影が、こちらを向いた。



 最後に会った時よりも、大人びた顔。身長も、少し伸びていて。

 記憶の中の子供とは少し違う。けれど彼女は、


「――おかえり」


 間違いなく、この部屋の持ち主だ。


「おかえり……」


 冷蔵庫にテストを貼っていた、



「おかえり、歌子」


 私の大切な、子供だ。




 歌子は今にも泣きそうな顔で、けれど私の目を見て、答える。


「――……ただいま」





 歌子の手にも、同じチョコレート菓子が握られていて。

 それがおかしくて、二人で笑った。




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