伝えない恋
その小さな影は、うつむいたまま、
俺の隣を通り過ぎる。
「小楠さん。」
「えっ!」
振り返った小楠さんは、訝しそうに俺を見る。
「あ、俺、YNにいた早瀬だけど……」
「あ、ああ……」
記憶のカードをめくった様子の小楠さんは、
俺が誰か分からなかったことを隠すように、急いで笑い掛ける。
「いつもYNテスト一番だったよねぇ――」
ここまで言って戸惑ったように呟く。
「お祝い会、もう終わった感じ?」
「あ、いや、まだ普通にやってる。俺は抜けてきただけで……」
「早瀬君は合格したよね?」
「おう、まあ……」
既に小楠さんが落ちたことを知っていることを言うべきかどうか、
信号のように点滅する。
「私、落ちちゃったから――ハハ、すごいね、早瀬君。」
これ以上小楠さんを喋らせたくなかった。
「運でしょ。
――小楠さん、今から行く感じ?」
「うん、挨拶かな。」
「棚橋?」
小楠さんは、28点の答案を折り畳んだ時のように、何も気にしないような笑顔を浮かべた。
「うん、小川先生と棚橋先生。」
きっちり棚橋を二番目に置く小楠さん。
俺の瞼に、入籍報告をする棚橋の照れ臭そうな顔とその薬指が浮かんで来る。
小楠さんは、何をしに、行くのだろう――
合格した友人たちが笑い興じる、その場所に――
「俺も戻るわ。」
「忘れ物?」
俺は予備校に向かって歩き始める。
一瞬遅れて、ちょっと小走りで小楠さんが追いつく。
スラリとしているから気付かなかったが、それほど背が高くないのだなと思う。
「いや、小川と棚橋に声掛けせずに出たから――」
「そうなんだ。」
小楠さんは、深く追求せずに、当たり障りのない返答をする。
「俺は、すぐ帰るし。」
小楠さんの邪魔はしないと暗に言ってみる。
小楠さんは軽く「そうなんだ。」と答える。
――存在もしないのに、邪魔になるわけがなかった。
北の裏口から校舎に入ると、
前に小楠さんに落とした百円玉を掻き出してもらった自販機が、
そして、その前に、棚橋が立っているのが見えた。
ひょいとこちらを向いた棚橋が、アッという顔をする。
「小楠さん――ああ、聞いた、聞いた。」
棚橋は、わざわざ、「不合格」の言葉を小楠さんから出させない。
俺は対面する二人を置いて、とりあえず、自販機の前に立ってみる。
「――浪人かあ……予備校は?」
「基本は、宅浪かなって……」
「宅浪か――小楠さんには合ってるかもね……」
自販機で買ったコーヒーがガシャンと音を立てる。
取出口から引っ張り出すと、俺は急いで声を掛けた。
「先生、僕は帰るんで……」
「おっ!じゃあ、頑張って!!身体気を付けて!!」
「――ありがとうございました。」
見送る二人の目が、早く俺から離れるように、駆け足で校舎を出る。
駐車場を抜けて外門を出て、校舎を振り返る。
小楠さんがペコペコと頭を下げたり、棚橋が頷いたりしている。
俺は、見えない位置までずれると、リュックを足の間に置いた。
真正面から北風が吹いてくるが、
ポケットに入れたコーヒーのペットボトルがじわりと温かい。
――と、外門から小楠さんが出てきた。
俺に驚いて、アッと言う。
――今にも泣き出しそうな顔で。
「急に帰ったら変かなって……」
俺は急いで言い訳をする。
「変じゃないよ!――なんか、ごめんね。」
「いや、小楠さん、1ミリも悪くないでしょ。」
俺たちは駅に向かって歩き出す。
何を話せばいいか分からない俺に、北風が遠慮なく吹きつける。
「寒い!」
肩をすくめる小楠さんに、俺はようやくポケットのものを思い出す。
「あ、これ、はい。」
思わず手に取った小楠さんに、俺は言う。
「ポケットに入る?まあまあカイロみてェな感じ。」
「エェ、いいの?」
「それ、小楠さんのだし。」
「私のだっけ?」
俺は困った。
男子校に六年もいると、女子と話す能力が退化するんだろうか。
それとも、相手が小楠さんだからだろうか。
「前、自販機の下から、百円玉出してもらったから……
その……まあ、そんな感じ。」
「いつだっけ……」
全く思い出せない風の小楠さん。
小楠さんの世界の中の俺の不存在が完全に証明されて、
俺の三月までの恋は終わったというよりも、
そもそもなかった気がして、情けなくなる。
しかし、俺は、北風に吹き晒される顔を上げた。
「秋くらい――百円が自販機の下に落ちて、
小楠さんが割りばしで掻き出して――」
「ああ!あれね!あれ、早瀬君だったんだ!」
小楠さんが朗らかに笑う。
「うん、そう――なんか、ごめん。お礼とかしてねェし。」
「あ、じゃあ、これはお礼っていう……」
「うん、そう。」
「おー、ありがとう。」
なんで結局、小楠さんにお礼を言わせるのか、俺は。
「無糖のコーヒー……」
「あ、飲めなかった?ごめん――駅で別の買うわ。」
カイロの役割も忘れて、慌てて手を伸ばす俺に、
小楠さんは首を横に振って、コートのポケットにコーヒーを入れる。
「いや、試してみる。ほら、私、ちゃんと目を覚まして勉強しなきゃだし。」
慰め?違う。
励まし?違う。
何を言えばいい?
そんな俺をチラリと見た小楠さんは、さらに付け足した。
「合格者からもらったコーヒーとか、縁起よさそう!」
そして、「飲んだら数学解けるとか!」と笑ってくれる。
もう俺は、自分をぶん殴りたくなった。
違う。
違う。
違う。
勉強とか、
成績とか、
合格とか――
違うんだ、
小楠さん。
小楠さんに、そんなものなくたって――
俺は――
俺は、街灯の白い光の下で、呼び掛けた。
「小楠さん。俺――」
しかし、ちょうど通り過ぎた急行列車に、その声は見事にかき消される。
俺が立ち止まったことにすら気付かなかった小楠さんが、
あれ?というように振り返る。
「私ねェ、宅浪して、完全に基礎から数学やり直そうって思ってて……」
青白い顔で、心を決めたように話し出す。
それを聞いた俺は、フラフラと歩き始めた。
――俺は、何も分かっていない。
「違う」のは、俺の考えじゃないか。
勉強も、
成績も、
合格も、
今はそれこそが、小楠さんを苦しめていて、
乗り越えたいと思っていて、
必死に戦っているものなのに。
俺は小楠さんに言う。
「俺のダチで、めちゃくちゃ数学苦手な奴がいたんだけど、
太田数学シリーズでK大数学制覇したらしい。」
「オオタスウガク…?」
「中堅大学向けの教科書とか言われてるけど、
基礎力上げるなら結構いいんじゃねェかな。」
駅が近付いてくる。
小楠さんは拍手して俺に笑い掛けた。
「ありがとう!すごいよさそう……駅ナカのMt.Bookで売ってるかなぁ?」
「あー、売ってると思う。俺、見たことあるし。」
「そうなんだ!じゃあ、買う!」
「エッ、見てねェのに決める?」
「だって、【買い】でしょ。間違いなさそう!」
改札に向かうエスカレーターで、青白い笑顔が俺を振り仰ぐ。
YNの花々に溶け込んで、話題の中心にいた小楠さんがふいに思い出される。
――そして、その中で唯一落ちたことも。
「俺も行くわ。
色々シリーズ出てるらしいけど、俺なら見れば分かるし。」
「いいの?助かる!」
全部、俺自身のためなのに、
全部、小楠さんにお礼を言わせる、
自分が嫌だ。
駅ナカの本屋Mt.Bookでは、残念ながら、スムーズに、
平積みの太田数学シリーズが見つかった。
早速手に取った小楠さんが、声を上げる。
「数学以外のシリーズも出てる!」
二人で思わず、平積みのポップアップを覗く。
あの自販機のときのように…
ほんの少し髪の先が触れて、
コートの肩先がこすれ合った。
本の匂いと微かなシャンプーの香りに、
俺の心臓が跳ね上がる。
当然、小楠さんの横顔などチラリとも見られない。
ポップアップを読み上げる小楠さんの声。
「【太田先生、待望の新シリーズ『生物』】」
「待ってねェし!」
「ハハハ!――でも、【買い】でしょ。」
「ハッハッハッハッ……」
俺は身体を折り曲げて笑う。
「そんなに笑う?――フッフッフッ……」
つられたように小楠さんも笑う。
――吹き出しても、話し掛けても気づかれなかった高三の一年間が、
ゆるゆると溶けていくようだった。
***
会計を終えた小楠さんが、ヨイショと五冊の本が入った紙袋を受け取る。
心なしか、青白い顔にうっすらと赤みが差している。
二人で本屋を出る。
「早瀬君はどっち方面?」
「俺はこっちだけど……」
「私はこっちだから……全然別だね。」
俺は近くのカフェに目を走らせる。
(ちょっと寄らない?)
(腹減らない?)
(本の中身一緒に見ない?)
俺が必死に誘い文句を考える間に、
小楠さんは、重い荷物を持ってトコトコと歩く。
荷物を持とうとする手も、誘う言葉も、勇気も出ない――
――いや、今大事なのは、カフェで食うことじゃねェだろ。
「小楠さん。」
小楠さんが俺を見る。
「番号、教えてもらっていい?
――俺のダチに、お勧めを聞いて、ショートメッセージとかで送るから。」
(嫌じゃなければ)という言葉は飲み込んだ。
小楠さんは、困ったような照れ臭いような表情をしながらも、番号を言い始める。
0・9・0……
入力されていく数字が、一つ一つ、小楠さんに繋がる階段のようだ。
「小楠さん」と入れて番号を登録する。
「今、電話かけたから、時間あるときに登録して。
あー、俺、早瀬って言うから。
瀬を早み…の早瀬。」
「岩にせかるる滝川の…の、早瀬ね。」
小楠さんはポケットを探って携帯を探していたが、
「これが出てきた。合格コーヒー。」
と、小楠さんが苦手そうな、
もうすっかり冷えただろう、
あの自販機のお礼の無糖コーヒーを、笑って俺に見せてくれた。
***
「じゃあね。」
「おぅ、また……」
俺は歩き始めたが、階段を降りる前に振り返った。
小楠さんはトコトコと階段を降りていく。
――が、パッと振り返ると、俺を見つけて立ち止まる。
コーヒーを持つ手を二、三回振ると、また、トコトコと階段を降りて行った。
俺は、二段飛ばしで階段を駆け下りると、
ちょうど来た電車に飛び乗った。
動き出した電車の窓の向こうに過ぎ去っていく景色の中で、
電光掲示板を見上げている、
真っ白な紙袋を抱えた小さな姿が、
俺には、はっきりと見えたのだった。
***
最寄りの駅で降りた俺は、携帯を取り出した。
――はい……はい、それなんですけど、
もう大丈夫です。
――あ、そうじゃなくて、会ったんです、偶然。
――そうです……直接……
――え?まさか……伝えてません。
――はい……それは……
――分かりません……
――




