終わる恋
通称YNと呼ばれるこのクラスは、予備校の中では二番目の進学クラスだったが、
その子は、どう見ても、一番成績が悪かった。
YNにいるのだから、中堅大学は余裕で狙えるわけだし、
その子が通学している女子高自体、その地域では有名な中高一貫校なわけだし、
YNでの成績はどうであれ、むしろ胸を張っていいわけだ。
しかし、今期のYNは地頭がいい奴が揃っているし、
予備校でトップの進学クラスOYに行けるところを敢えてこのクラスに留まっている奴も多い。
そのせいもあってか、「成績が悪い子」というよく分からない地位を確立していた。
「小楠、28点。俺の年齢と同じ!」
講師の小川が、点数を曝け出すことで笑いに変え、
むしろ明るくその子を励まそうとする。
(――嫌じゃねェの?)
俺は思わずうつむき、髪の隙間から小川を睨む。
その子は、小川なりの気遣いを「気遣って」、
「またやりました。」とわざわざ頭を掻く仕草をする。
励ましが成功したと思った小川が笑って教室を見渡す。
教室にも和やかな笑いが広がる。
チョークを持った小川が講義を始める。
席に着いたその子は、何気ない仕草で28点の方を内側に折り畳み、
机に置いたノートの下にテストを差し込んだ。
***
YNの女子は華やかだ。
OYの友人にも羨まれる。
地域の色々な女子高の中でもY大、N大を目指す勉強熱心な女子が集まるのに、
実に見目麗しい。
騒々しくないのに、華やかだ。
男に媚びないのに、華やかだ。
お嬢校の頭のいい女子の美点が詰め込まれている。
その子もそんな女子同士で楽しく笑い合っている。
しかし、地味だ。
容姿に華がなさ過ぎる。
その割に、話の中心にいることが多い。
庭園の花々に囲まれても地位が揺るがないのは、
この珍妙な小動物が、咲き乱れる花々を邪魔しないからだろうか。
花々も、花々同士でさざめくよりも、
小動物と戯れることを好んでいるようにすら見える。
ママがお揃いのブランドバッグを買ってくれただの、
今度ホテルで誕生日パーティーをするだの……
そんな話を聞いて、いちいち上手に反応するからだ。
(――嫌じゃねェの?)
俺なら、うるせェ勝手にやれ、と心の中で罵倒してるだろう。
しかし、生粋のお嬢様というものは、
他人の成金的な吹聴もそよ風程度にしか感じないのかもしれない。
一方で、その子がする自分の話といえば、
死んだと思った蝉が飛んできて驚いたの、
夢で隕石を押し返しただの、
驚くほどどうでもよくて、
聞いていて笑いが堪え切れない話ばかり。
一度、思わず吹き出して、その勢いを借りてその子の方を見たが、
周りの女子共も大笑いしているし、
存在すら気付かれない俺の笑顔は、膝に置いたリュックの中にしまい込まれた。
***
そう、その子は、驚くほど周りを見ない。
正確に言うと、男子生徒を見ない。
クラスで俺たち男子が女子に話しかけても、
自分が話し掛けられているとは思わないようだ。
友人の女子が返すことに任せて、当然のように粛々と自習を始める。
既に、クラスの中で、男子校の男と女子校の女が付き合っていたりもする。
前、女子共の間で、「安田ちゃん、木島君と付き合ってるんだって!」といった話が盛り上がっていたとき、
その子は、へぇぇ、すごいすごいと心底驚いた風で、拍手までしていた。
しかし、その後もずっと、俺たち男子を見ることも、
自分から話し掛けることも、
話の輪に入った俺たち男子が、
――俺が……
俺が、その子に話し掛けていることにも、
気付くことはなかった。
***
夏を前に、俺の友人の澤井が、花々の一人を好きになったと言う。
同じ頃、檀上も、同じ女子を好きになったという話で、
別々に話を聞いた俺は「面白れェ」と思ったが、すぐに忘れた。
YNのほとんどは要領がよく、高3の正念場で、
恋愛を理由に受験勉強を疎かにする奴はあまりいない。
恋愛とは縁遠い俺も、当然、受験勉強を疎かにしない。
俺は、毎日、授業がない日も予備校の自習室に行く。
割と大きな予備校で、広い自習室が二つもある。
その子もよく来ている。
第2自習室の壁際の列が気に入っているようだ。
俺は、自習室に入ると、まず壁際に目を走らせる。
地味な背中が見えると、喉の辺りが張り詰める。
俺は壁際まで歩きながら、空席を物色する。
ちゃんと、どの列にも目をやって、どの席にしようかという体をとる。
茶番を一人で演じて、ようやく壁際の列にたどり着く。
偶然隣が空いているときでも、そこには行かない。
背中合わせの列の、斜め二つくらい離れている席があれば最高だ。
布製のペンケースのジッパーを開ける音、
革鞄からテキストを引っ張り出す音、
ペットボトルのキャップを閉める音――
女子共と交わす笑い声は弾んでいるのに、こういう音は滑らかだ。
その子の微かな息遣いの中、俺は最高に集中できる。
その子がいつ立って、俺を目にしてもいいように、
常時ペンを走らせ、ページをめくる。
今思えば、滑稽だ。
俺のその全ての行為を、一目たりとも、その子が見ることはなかっただろうから。
***
九月になると、予備校で個人面談が行われた。
YNクラスと言っても、数学と国語が一緒というだけで、選択科目の理社は別々の講義を受ける。
YNの担任は数学の小川と、国語の棚橋、
――今回の個人面談の担当は小川だった。
「早瀬は――O大受験する気ないの?
普通に行けると思うんだけど――A判でしょ?」
「――まあ、はい、そうですね。」
「もったいないなあ……なんでだめ?確実狙い?」
「――まあ、はい、そうですね。」
「――じゃあ、せめてOYクラスに上がらんか?」
俺は思わず顔を上げた。
「え?――いや、普通に、YNでいいです。」
「お前の偏差値なら、普通ならOYだろ。」
成績が表示されたタブレットを指で叩く。
「OYに苦手な奴いるか?まあそれなら仕方ないけど……」
「苦手なやつとかは……いません。」
「――早瀬さぁ」
小川がニヤニヤしながら声を潜める。
「YNに好きなやついるだろ。」
一気に全身から血の気が引いた。
「はあ?――今さら別のクラスとかめんどいだけです。」
俺は、小川の手元で光るタブレットの画面を見たまま硬直した。
今度は、沸騰した血が耳までせり上がってくる。
が、小川はタブレットを持つと立ち上がった。
「OYに上がる話、いつでも声掛けて。」
俺はリュックを持つと、転がるように部屋を出た。
***
その後、階段下の自販機の前で、
俺は、光るボタンと「アタリが出たらもう一本」という嘘くさい表示を眺めて立ち尽くしていた。
が、後ろに人が並ぶ気配がして、ハッとする。
慌てて小銭を入れようとした瞬間、
投入口から外れた百円玉が、カチンと硬質な音を立てて自販機の下に入り込んだ。
覗き込んで指を差し込んだが、届きそうにない。
第一、後ろに人が待っている。
もう諦めようと思った瞬間、チャリチャリという袋の音と共に、
俺の隣に風が舞った。
「奥の方なんですか?」
――喉から心臓が出るとはこのことか。
既に、コンビニの割りばしを袋から出して、
手に構えたその子が、
隣にしゃがみ込んでいた。
「あ、うん……」
「どの辺り……?」
「ここら辺……」
俺が指した辺りを覗き込み、割りばしを差し込んで懸命に掻き出そうとする。
「あ、ごめん……俺、やるし……」
俺も一緒に覗き込む。
俺の髪が、その子の髪に触れ、
互いの制服のブレザーの、尖った肩口がこすれ合う。
俺は、初めて近づいたその子の横顔を、
横目で見る勇気すらなかった。
「もうちょっとかも……あ、取れた。」
引きずり出された百円は、見事に埃まみれ。
「わぁ!」
「汚ェ!掃除してねェのか!」
手に取ろうとした俺に、
笑いを堪えたような声で「待って」と言い、
コンビニのウェットティッシュをチャリチャリと音を立てて取り出す。
しかし、その子が百円玉をウェットティッシュで拭くと、
汚れがいよいよベットリと広がってしまった。
「あれ?」
「あ、洗った方が早ェ案件。」
「確かに!」
その子は吹き出しながら、ウェットティッシュに包んで俺に百円玉を渡す。
俺は財布にそのまま突っ込むと、別の百円で水を買う。
俺が場所を譲ると、
もうその子は、俺という男子の存在が見えなくなったように、
光る自販機の前で首を傾げている。
俺は、自販機の光で頭が真っ白になったまま、数秒立ち止まっていたが、
結局、ただフラフラと、
その場を立ち去った。
***
意気地なしの、礼儀知らずの俺自身のせいで、
その後も、YNで、
その子と俺が話すことはなかった。
自販機前で自分が助けた男子が俺であることすら、気づいていないようだ。
なぜ、あのときの自販機で――
なぜ、あの後すぐにYNで――
YNでの授業が終わっても、
準備はなるべくゆっくりする。
教室を出るタイミングを合わせたいのだ。
しかし、国語の授業のときは合わせるのが難しい。
その子が、ほとんど毎回、棚橋に質問に行くからだ。
棚橋は小川よりも随分若いが、割と生徒から好かれている。
容姿や性格が目立ってどうということもない。
笑いを取りに行ってよく滑る。
しかし、担当教科が国語と物理というだけで、
高校生に――特に上のクラスの生徒には、
一目置かれるに十分な個性なのだ。
今日も、質問に並ぶ列の中に、その子がいる。
俺はノロノロと準備する。
ふいに棚橋の笑い声が耳に入って、俺はその方向に目をやった。
別の生徒の質問で笑う棚橋を、その子は顔中笑顔にして見ている。
そういえば、授業中、
大して面白くもない棚橋の冗談にも、
その子は顔を上げて笑っている――いつも。
驚くほど周りを見なくて、
当然俺なんかには気づきもしないその子は今、
目どころか、身体中を使って、棚橋を見つめている。
――俺は、唇を噛んで、一人で教室を出た。
廊下の広い窓から見える空には、
灰色の雲が垂れこめていた。
***
十二月、共通テスト前の最後の面談、
――今回は棚橋が担当だ。
「前の模試――Y大B判だったねえ。
早瀬君、体調とか、色々大丈夫?」
「――別に大丈夫です。」
「ああ……うん、いや、正直、結構心配してるんだけど。
早瀬君、成績は心配してない。うん、そこは。
――でも、身体とか色々しんどいのかなって、
そこはやっぱり心配になる。
――僕もさ、Y大直前模試でB判だった。
それまで、ずっとA判だったんだけど。」
俺は顔を上げて、棚橋を見た。
棚橋の目は、ごく当たり前のように、
俺に対する親愛と心配に溢れていた。
「直前って、なんか、
頑張ってる奴ほど、
ポキッとうまくいかないのかもしれない。
ずっと頑張って来てるのにさあ――イラッとするよね。
周りの奴にも『棚橋、B判か?』とか言われて。」
「先生はどうしたんですか……?」
「いやあ……どうしたんだっけ……」
俺は吹き出した。
「そこ大事ですよ、今。」
「忘れた、忘れた。まあ、忘れる程度のことだよ。
――早瀬君も、三月まで適当にやればいいよ。」
「はあ、適当?」
「そうそう。早瀬君の適当は、適切だから。」
――俺は背筋を伸ばして、面談室を出た。
と、少し離れてその子が順番を待っていた。
その子は俺を一目も見ずに扉をノックすると、
ハイどうぞ、という声を聞いて扉を開く。
「よろしくお願いします」「はい」
という、弾んだ声。
扉が閉まると同時に、
フツリと俺の耳に届かなくなった。
***
三月――
予備校で合格お祝い会が開かれる。
ちょっとした食事や菓子が立食で出され、
塾長や講師がお祝いを言う。
無事にY大に合格した俺もその会に参加していた。
同じ花に恋した澤井と檀上は落ち、
その花は合格しているからお笑い種だ。
そんな会などめんどくせェと思う余地もない。
俺には……心に決めたことがあったから。
しかし――
いない。
その子がいない。
立食であることをいいことに、
俺はじりじりと場所を変え、
女子共の方に近づいていく。
が、その途中で、小川に声を掛けられた。
「早瀬、安定の合格だな!」
何が安定だ。
「小楠はやっぱり落ちたんだよなぁ……」
突如、胸に解体用の鉄球がぶち込まれた気がした。
「そう……なんですか?」
「ああ、塾に連絡があった。
来いって言ったんだけど。今日のお祝い会。」
「えっ?それ最低でしょ。
絶対来たくないでしょ、僕なら絶対――」
「いや、お前が気にしてるかなと思って……」
「はあ?何で……」
心臓が口から飛び出そうだ。
「先生、僕のこと――なんか言ったんですか?」
「言わないよ、当然でしょ。」
意外にも、小川は真面目な表情で俺を見ている。
「俺からは、早瀬に小楠の連絡先とか言えないだろ。だから、直接……」
「なんで、連絡先――」
「お前なぁ……」
そのとき、「おめでとう、早瀬君!」と柔らかい声がする。
「良かった、良かった。
ほら、【直前B判合格理論】が証明されたよね!」
棚橋が俺に手を伸ばす。
思わず握手した俺は、棚橋の手の感触にハッとした。
左手の薬指に、指輪がある。
「先生――結婚してたんだ。」
「ああ、違う違う。
今日、入籍した。」
「今日?」
「みんなの合格発表前に入籍するのは、
ちょっとどうかと思ってたから――」
小川も笑う。
「棚橋先生、大学から付き合ってる彼女と入籍したんだぜ?
ああ――俺も結婚したくなってきた!」
「まずは彼女からでしょ、小川先生。」
「それ言っちゃう?」
じゃれ合う二人が霞んでいく。
ああ――
今日という、三月のお祝いの日に、
――俺の恋も、
――その子の恋も、終わったんだ。
どちらも、相手に気付かれることもないまま――
「そうそう」
小川の声。
「小楠、浪人するって。」
「滑り止めで受かった大学には行かないんですか?」
棚橋が聞き返す。
「いや、浪人して、またY大目指すってよ。
棚橋先生にも直接言いたいって言ってたけど、
そのとき、先生いなかったから……」
「小楠さん、やっぱり真面目だなあ……」
棚橋が嘆息する。
――真面目?
俺は、唇を噛んで棚橋を睨んだ。
ただ、「真面目」でまとめるのか?
どんな思いで、自分の番号のない合格者発表を見たのか。
どんな思いで、落ちた悔しさを、恥ずかしさを飲み込んだのか。
どんな思いで、もう一年浪人すると決めたのか。
どんな思いで、先生に連絡したのか。
どんな思いで、電話越しの声を明るくしていたのか。
どんな思いで、棚橋の声を聞けないまま電話を切ったのか。
(分かんねェのかよ。)
俺はその場から離れて、冷えたピザを口に詰め込み、炭酸ジュースで流し込んだ。
小楠さんに会いてェ。
――何で落ちたんだよ、小楠さん。
――俺は、今日、小楠さんに会ったら……
――告白しようって、心に決めて来たんだよ。
――棚橋のことを想っていても、
――告白すれば、せめて、
――俺が、小楠さんの世界に存在してるって気付いてくれるだろ?
それで……
あのときの自販機のお礼を言って、
あのときの自販機で、
お礼のジュースを買って……
――俺は、驚くほど味がしないピザを、
さらに口に詰め込んだ。
存在に気付いてもらえれば、
断られたとしても、大学で会えば、
話せるかもしれない。
気まずくても、今度こそ、俺から話し掛ける。
頭にドングリが落ちてきたとか、踏切で待たされたとか、そういう話をする。
そうしたら、小楠さんは、蝉爆弾の話とか、夢で隕石を押し返す話とかをしてくれる。
そうしたら、
そうしたら――
ふいに俺はピザを頬に詰めたまま固まった。
冷えた身体が、早まる鼓動で急に温まってくる。
浪人――
Y大を目指す――
一年……一年、延びただけなんじゃないか?
小楠さんと他愛ない話をする、その時が。
俺は急いでピザを飲み込んで、
その辺りの紙ナフキンにペンで走り書きをして、
別の生徒と話している小川に近づいた。
「先生、いいですか。」
小川は「おう、どうした。」と言いながら壁際に寄る。
「先生、もし、また小楠さんから連絡があったら、
この僕の電話番号を伝えてください。」
紙ナフキンを小川に押し付ける。
「同じクラスに早瀬って奴がいて……
小楠さんと話をしたくて……
その……もし良ければ、
電話が欲しいって……」
小川は紙ナフキンを丁寧に折りたたむと携帯のケースに挟み込み、
ウォイだのオゥだの、
なんだかよく分からない声を上げながら、
握りこぶしで、グイと力強く、俺の肩を押した。
***
お祝い会の部屋をもう一度見回すと、YNの女子が、
小楠さん以外全員合格していたことに気付く。
今日はいつもよりも一層華やかな服装で、
髪をクルクル巻いている女子もいる。
しかし、小楠さんがいないだけで、
ここまで色彩を失うものなのか。
小楠さんがいるから色彩に溢れ、
小楠さんがいるかもしれないから、どんな瞬間も、その場所は、息づいていたんだ。
……
俺は受付に一声かけて、お祝い会を後にした。
***
三月の夕暮れは、まだ寒いのに、
俺は熱に浮かされたように、線路沿いを駅に向かって歩く。
歩く足が段々と早まっていくが、
一番星に気付いて、ふと顔を上げた。
ポケットの携帯を握り締める。
いつか、電話がかかってくる日が
――来るのだろうか。
ホッと息をついて前を見ると、
――少し離れた線路沿いの道を、
思い詰めたように、
こちらに向かって歩く、
小さな影を、
俺の存在など視界に入っていないような、
見慣れた、
遠い、
その影を、
俺は、
はっきりと
見たのだった。
――




