1-3 霧の魔物
黒い霧に包まれた瞬間、視界が一気に奪われた。
空も、森も、何もかもが闇に飲み込まれたようだった。
「……っ、何これ……!」
セラフィナは咄嗟に杖を構え、即座に魔法の詠唱を開始する。
「アイス・スピアー!」
氷の槍が霧の中へと放たれる。しかし⸺
ズン、と嫌な感覚が胸の中に広がった。確かに魔法は放った、けれど、霧に飲み込まれた途端、なんの手応えもなくただ空気に溶けていった。
「嘘!?……ううん、落ち着くのよセラフィナ。相手は霧、実体がない。でも微量な魔力を感じる、きっと魔物のはずよ」
実体がないのなら、その実体が出るまで持久戦だ。
魔物は、獲物を仕留めるとき必ず実体を持つ。
要はこちらが隙を見せればいいのだ。
セラフィナは地面に片膝をつき、息を整えた。
見えない敵に囲まれているような感覚。肌を撫でる霧はひんやりとしていて、時折、どこからか囁くような音がする。
確信した、こいつは⸺
「霧食い《ネブラバイト》!!」
魔物図鑑で読んだことがある。
実体のない霧で獲物を惑わせ、記憶を喰らう。
そして満たされた後、魔獣の姿で現れ、記憶を失った人を⸺食う。
(長期戦はまずいっ……!)
セラフィナは唇を噛み、再び立ち上がる。
「こいつは記憶だけじゃなくて、吸った魔力の量が多ければ多いほど、早く実体化するはず……記憶を食われる前に決着をつける!」
そうしている間にも、霧は身体中に纏わりついてくる。
考えがまとまらない。ひとつ浮かべば、次の瞬間には霧のように掻き消えてしまう。
(まずい……次の一手が遅れたら、あたしの名前すら思い出せなくなるかもしれない!)
迷ってる時間が命取りになる。考えるより先に身体を動かさなくちゃ!
セラフィナは杖を振り上げ、呪文を次々と繋いだ。
「《フロスト・ニードル》……次、《ウィンド・カッター》!」
霧の中へ、魔力の槍が矢継ぎ早に放たれていく。
とにかく撃つしかない。魔力で満たされれば、霧は実体を持つ。
「出て来なさいよっ!」
次々と放つ魔法。狙いも何もない。ただ、叩き込む。
《ヴォルト・ランス》
《フレア・スパイク》
《アイス・スピアー》
霧が一瞬、脈打つように揺れた。
「来るか……!」
空気がひりつく。風が止まり、霧の奥から何かがにじむ。ずるり、と地を這うような音。
霧がうねり、中心に黒い影が浮かび上がった。
輪郭を得ていく。足、腕、牙。
それは巨大な獣の姿を取った“霧”だった。
「ようやく姿を見せたわね……!」
セラフィナは杖を構え直す。
「実体があればこっちのもんよ!!」
《クリスタルヴォルト》!!
宝石のように煌めく雷の槍が、ネブラバイトを切り裂く。
呻き声と共に、その赤い瞳がゆっくりと閉じられていくのを、セラフィナは満身創痍の身体で見つめていた。
魔物の身体は崩壊し、ゆっくりと霧が晴れる。
視界が澄むにつれて、そこには見覚えのある森が広がっていた。
けれどさっきとは違い、森には風が吹き、鳥のさえずりが聞こえてくる⸺命の音だ。
セラフィナはその場に座り込み、深く息を吐いた。
勝ったのだと、ようやく実感が沸いてくる。
「どうなることかと思ったけど……魔物図鑑、読んでおいて正解だったわね」
セラフィナは息を整え、立ち上がる。
服についた土を払い、森の先を見やった。
目的地のホプの村までは、あと1時間も歩けば着くだろう。
「さて、気を取り直して行きますか!」
1人での戦闘で勝ったことで少し調子が出たのか、早歩きで森の小道を進んでいくセラフィナ。
風はすっかり穏やかで、木々の葉がさらさらと揺れていた。あれほど禍々しかった空気も、今はどこか清々しく、遠くからは川のせせらぎや鳥のさえずりが聞こえてくる。
森を抜けるまでに、何度か枝に引っかかって服を破きかけたが、それすらも今のセラフィナには気にならなかった。
しばらく進むと、視界の先にちらりと建物の影が見える。
「あれがホプの村ね」
木々の間から覗くのは、こじんまりとした木造の家々。そしてその手前には、石造りの低いアーチ型の門。
村の入り口には、のんびりとした顔の農夫が一人。荷車を引いて帰ってきたところのようだ。
セラフィナは胸の前で軽く手を合わせ、ふっと息をついた。
「とりあえず、話を聞かせてもらいましょ」
軽く笑って、やけに静かなホプの村へと足を踏み入れた。