特別編:その4
金華にいるときは一人でほいほい出歩いていたリーリェンだが、女王になってからそれはない。京師の土地勘がないためだ。道が分かり、安全性が確認できれば、リーリェンはほいほい街に降りていただろう。そう、僑はまだ治安が悪い。
「こうしてみると、金華は治安が良かったのだな、と思う」
内朝の中にある女王の執務室で、リーリェンが紙の束を机にたたきつけた。各地の報告書だが、さすがのリーリェンも飽きてしまったらしい。それをルイシーは拾い上げる。
「ま、金華はお前がよく治めていたし、小さいながらも政が機能していたからな。毎年きっちり税が上がってくる地域など、金華くらいだったぞ」
「……らしいな」
リーリェンが白樺の椅子の背もたれに寄りかかる。もともとは紫檀の椅子だったのだが、重くてリーリェンが動かせなかったため、白樺に変えたらしい。それでも重いらしいが、これ以上軽くすると、強度が、と工部の職人たちが困っていた。
一応、女王の夫という立場にあるルイシーは、リーリェンの行う政には口を挟まないようにしている。まあ、彼は武官上がりなので、もともと詳しくはわからない。だが、リーリェンより長く京師にいるので、知っていることがある、というだけだ。
「金華の治安が良かったのは、私の力と言うより、私が父のしていたことを引き継いだからだ。その基盤から作るのは、また難しいな……」
すでに税が納められる秋口に差し掛かっているが、登極から二か月弱で、リーリェンはすでに三度、地方反乱に軍を派遣している。兵部尚書に任命されてしまったヨウリュと、禁軍将軍を引き受けたシャオエンはこき使われているらしい。
リーリェンは、すべてを自分一人ですることは不可能だ、と割り切っているようで、容赦なく仕事を各担当へ振っていった。宰相でもいれば総括するのは宰相になるが、リーリェンは宰相を置いていなかった。曰く。
「該当する人間がいない」
とのことなので、しばらく保留になるだろう。何しろ、リーリェンは京師に基盤がない。父グォシャンが官吏だったころの同僚などはいるが、女王だと言うだけでなめてかかられるのだ、と面白くなさそうに彼女は言った。基本的に表情筋が動かない彼女だが、最近は短気だなぁと思う。
政に口を挟まない割にリーリェンの側にいるルイシーは、リーリェンの護衛替わりである。片目が見えなかろうが、多少筋を痛めていようが、ルイシーは用心護衛ができる程度には動ける。物理的な力に弱いリーリェンを文字通り守っている。ずっとリーリェンの護衛を務めていたシンユーが禁軍に組み込まれてしまったため、現在不在なのだ。
結局、報告書は戸部に差し戻された。ルイシーは低く笑う。
「容赦がないな。怖がられるんじゃないか」
「さて。私を侮ってかかる人間に怖がられたところで、一向に構わん」
「……お前らしいな」
彼女の中でどういう情報処理が行われているのかわからないが、彼女の物言いは変わらない。そのことに、ルイシーは苦笑を浮かべた。
「疲れてないか」
「飽きてきた」
そこで飽きてきたと言ってしまうあたり、リーリェンは面白い。白樺の椅子から立ち上がって伸びをしている。今度は桐の椅子でも作らせようか。白樺の椅子は、ルイシーにはそれほど重くはなかった。
「お前こそ」
細い指がルイシーの面に触れた。小さな手が頬を包み込む。
「外に出られなくて、くすぶってはいないか。本当は、シャオエンたちと行きたかったのではないか」
じっと目を見て言われて、その瞳に少しの後悔の色を認めて、ルイシーは目を細めた。
「そうだな。今まで通りのことができないのが苦しいこともある。けど、それはお前も同じだろ。あれだけ金華を好きに歩き回っていたんだから」
リーリェンの瞳が揺れて、視線がそらされる。頬に触れていた手も下ろされた。代わりにルイシーがリーリェンの小さな顎をとらえる。
「あんまり申し訳なさそうにするなよ。お前は俺のお前への思いに付け込んでると思ってるんだろうが、それは俺も同じだからな」
幽閉か、女王の夫に納まるか。どちらか選べと言われて夫を選んだのはルイシー自身だ。リーリェンから思われているのを知っていて、本当は彼女から離れた方がいいとわかっていながら、彼女の思いに付け込んだのだ。なので、お互い様だ。
「……悪いが、お前を外に出してやれない。お前は先の王の息子だと知られてしまっているから、何をされるかわからない。金華の方が、自由に出歩けるだろうな」
いつだって、リーリェンが気にするのは人のことだ。今だって、ルイシーのことを気にしている。ルイシーも、たぶん姉のリージュも、彼女のこういうところが可愛くて仕方がないのだ。だから、笑って言った。
「もし俺がのこのこと金華に行ったなら、みんなに『姫様を一人にして何をしてるんだ』と責められただろうな」
リーリェンはそうか? と半信半疑だったが、これは間違いない。顎から手を放して、頭を撫でた。リーリェンは「解せぬ」と言わんばかりの表情だ。怒りや困惑ではなく、うれしさや楽しさで表情を変えてほしいな、と思わないでもない。
「どうしたんですか、あんたら」
一応入室の許可を取ってから入ってきたヨウリュが、遠慮なく二人を見て言った。何かあったとわかるくらいには、ヨウリュは二人を知っている。
「何でもいいだろう。状況はどうだ?」
「ああ、はい」
開き直ったようなリーリェンの言葉にヨウリュはあきらめて状況報告を始めた。ルイシーは窓から外を眺めて半分聞き流していた。
仕事を切り上げて執務室のある宮廷側から内朝に戻る道すがら、ルイシーは尋ねた。
「そういえば、聞きそびれていたんだが」
「うん?」
「お前こそ、金華に帰りたいんじゃないか」
一歩先を歩いていたリーリェンが立ち止り、ルイシーを見上げた。その頭が傾く。
「そうかもしれない。けど」
リーリェンはルイシーの腕に抱き着くと、顔を隠すように肩口に顔をうずめてきた。
「……ルイシーといられるなら、女王生活も悪くないと思った」
「……」
なんだろう。この間からうちの女王陛下が可愛い。
見下ろすルイシーからは、リーリェンの頭しか見えない。式典でもなければリーリェンは髪を下ろしているので、つむじが見える。
「リーリェン。顔が見たい。顔をあげてくれ」
猛烈にリーリェンの今の表情を見たい。ルイシーなら彼女を引きはがして強引に見ることはできるが、それはしたくなかった。彼女の意思で顔をあげてほしい。
だが、リーリェンは首を左右に振る。そのしぐさすら可愛い。女王業を頑張っている分、めちゃくちゃに甘やかしてやりたい。
「リーリェン。たぶん、俺も今人に見せられない顔をしていると思う。お互い様だ。顔を見せてくれ」
おずおずと顔があげられた。羞恥からか頬が絡み、黒曜の瞳がうるんでいる。唇が引き結ばれたその表情は、今まで見たことのないリーリェンの『女の子』の顔だ。ルイシーも顔がにやけている自覚があり、リーリェンが照れ顔のまま手を伸ばして頬に触れてきた。引き結ばれていた唇が震えながら開いた。その唇に食らいつきたい。
ルイシーの雰囲気が変わったことを察したのか、リーリェンが手を引っ込めた。今度はルイシーがリーリェンを抱きしめた。細い体を強くかき抱く。リーリェンの手がルイシーの衣を握った。ところで。
「お迎えに上がったのですが、不要でしたでしょうか」
女官長に冷たく言われ、さすがのルイシーも顔がこわばった。リーリェンに至っては顔をあげない。瞬間的に切り替えられなかったのだろう。女官長は呆れたように言った。
「夕餉の支度が出来ておりますよ」
みんな、リーリェンには食べさせておけばいいと思っている。現実逃避気味にルイシーは思った。
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