馬揃え
八月。
信長は佐久間信盛に対して折檻状を送りつける。内容は「天王寺に五年も対陣しながら何の功もない、多くの与力を与えられながら戦を仕掛けなければ謀略も仕掛けない、新しく家臣を与えればそれらを追放する、そこから新しく雇えばまだしもなにもしない、私服を肥やしていたのではないか、明智・羽柴・池田は戦で功を挙げてる、その動きを見て柴田も加賀へと侵攻し平定して見せた、進退窮したのならば信長を訪ねれば良いのにそれもしない、立場に慢心していたのではないか、そもそも口答えしてきたのはお前ぐらいだ、その時己の自慢を口にしていながらこの体たらく、お前の息子も調子乗りすぎだぞ、今まで使えてきて大功を挙げたと聞いたことがない、家康の援軍にやった時も周りは討ち死にした者が多くいたがお前のところにはいない、これらを挽回するにはどこぞの敵に戦を仕掛け平定するか討ち死にする、もしくは頭を剃り高野山にでも隠遁するべきではないか」と直筆で書き連ねた。
佐久間親子は取る物取らずに退去して高野山に向かうも信長の命により高野山に入ることは許されず、紀伊熊野まで足を運び逐電した。
信長は戦で功を挙げることを期待していたのかなと思う。高野山に行けと書いたのに、実際に行ったら入らせないという行為が根拠かな。
他にも三名ほど過去の謀叛を蒸し返されて追放される。
天正九(一五八一)年、一月。
遠江高天神城を徳川家康が包囲する。その救援に武田勝頼が出てくるとの報せがあったので、信忠が兵を率いて清洲城に入る。
二月。
京で馬揃えが催される。畿内及び隣国の者が集められ各々着飾らせた。現代で言うところの軍事パレードの様なものだ。これには天皇陛下も大変喜ばれ、後日また開催してほしいとご要望なされた。
三月。
要請に応えて再度馬揃えが催される。禁中からは陛下をはじめ多くの方が着飾って参列した。この度の催しも大変お楽しみ頂けていた。
そのような中、北陸より将が離れた隙に敵方が兵を集め上杉景勝を大将に軍勢が形成された。人を入れていた城は包囲され、加賀でも一揆勢が蜂起して砦を攻め落とされる。しかし砦は守備に残されていた将が取り返すことに成功する。
上杉勢に城が包囲されたとの報せを受けた信長は、ただちに北陸勢に出陣を命じる。諸将はすぐさま出陣し、これを知った上杉勢は包囲を解いて撤退した。




