伊勢長島の最期
六月、武田勝頼が高天神城を包囲する。この報を聞いた徳川家康は信長に救援を要請した。これを知った信長は集められるだけの兵を準備して自ら出陣した。
しかし救援は間に合わず落城してしまう。家康は救援に駆けつけてくれたことに礼を述べたが、信長は救援に赴きながら落城までに間に合わなかったことに詫びとして金を送った。
この金がまた規格外な量で皮袋二つ一杯に入れられていたのだが、試しに徳川方が持ち上げてみると一袋を二人がかりで持ち上げられる程の量だった。
七月、伊勢長島の一揆勢を討滅するべく軍を発した。織田軍は陸と海の計三ヵ所から攻め込む。織田軍は一揆勢の各拠点に猛攻を加えて、敵は堪らず降伏を申し出てきた。が、信長はその一切を許さずなで切りにした。
このような攻勢を前に、ある拠点では脱出が試みられた。しかし織田勢に補足され、男女合わせて千程の人数がなで切りにされた。長島城への退転を申し込んだ拠点の将兵は許され、長島城へと押し込まれていった。
長島での対陣は長引き、一揆勢にとっては予想外のことだった。故に餓死者が出てきたこともあり長島城は降伏して開城した。降伏を認められた一揆勢は各々船に乗り込み城から退出していった。ところがそこに織田勢は鉄砲を撃ち込み、逃げ出した者は刀で切り捨てられた。
織田勢の裏切りにあった一揆勢は死兵と化し織田勢の陣地へと斬り込んでいった。この逆撃で一揆勢は大暴れし、陣を突破した者は無人の陣小屋で服やら何やらを奪い大阪へと逃げて行った。この斬り込みで一門からも死者がおり、大きな損害を受けた。
この失敗から信長は残りの拠点は籠城する敵ごと焼き払った。周囲を何重にも柵を立てて逃げられないようにして二万もの人が焼き殺された。




