長篠の戦い
天正三(一五七五)年の年明けに、去年の暮れから命じられていた街道の改修工事の完了報告が続々と届けられてきた。道幅は約六.四メートルと決められ、平らに整地したり石をどけたりした。道の両側には松や柳が植えられ、付近の住民が清掃活動に従事して整えられていた。合わせて関銭諸役が廃止され、益々人の往来が多くなった。
二月、京に居た信長の下に珍しい客人が訪ねてきた。その人物とは今川氏真だ。今川氏真は、かつて信長が桶狭間の戦いで討ち果たした今川義元の嫡男である。氏真は前にも信長と会見したことがある。信長は話の中で氏真が蹴鞠を嗜むと聞き出し、その見物を所望した。氏真は信長の前で蹴鞠を披露することになり、公家のお方方も一緒に技を疲労した。
公家の衰退は著しいものだった。あまりの困窮具合に所領を売って食い扶持を稼ぐ有り様だった。そこで信長は徳政令を発して土地が元の家に返ってくるように取り計らった。これにより信長は公家衆をはじめとする者達の再興を果たしたことになる。
時を同じくして、武田勢が三河に侵攻してきていた。
四月、信長は大阪に出陣する。本願寺は無視して周りの城砦を落として回った。陥落した拠点は破却され河内国は平定された。本願寺の降伏は時間の問題となった。
五月、信長は兵を率いて三河へと出陣した。目的は三河国長篠城の救援である。長篠の戦いと言えば鳥居又右衛門の話をしたいが割愛、実際の戦いの話をしよう。
長篠の戦いで有名なのは三千丁の鉄砲を用いた三段撃ちが有名だが、実際には三段撃ちは後の創作だし、そもそも三千丁も鉄砲は使われていないというのが濃厚だ。織田軍が持ち込んだ鉄砲の数は千五百丁程だ。
長篠の戦いで特筆すべき点は、短期間で防衛陣地を築いての迎撃戦を展開したことだ。織田・徳川連合軍三万八千と武田軍一万五千が正面から激突した結果、武田の惨敗に終わった訳だ。
大量の尾張の弱兵と少しの三河武士、対するは十何年も上杉と戦い続けてきた戦国最強の武田軍。まともにやれば武田が勝っていただろうが、そこは織田信長という規格外な男が指揮を取っていた。
織田・徳川軍は二キロに及ぶ陣地を構築。堀には川の水が流し込み、土塁を築いた。その奥に三重の柵が立てられていた。織田・徳川軍はその後ろから鉄砲や弓を撃ち込み、突破してきた者は槍で突き殺してやればいい。数の暴力の前には少数の強兵など敵では無い。ましてや防衛拠点の攻略には攻撃三倍の法則が定説である。
他にも別動隊による退路の遮断。佐久間信盛の偽装寝返り。兵の数を少なく見せる欺瞞築城。武田の内紛など要因はいくつもあるが、武田軍は粉砕された。
この戦いで多くの重臣を失った武田家は大きく衰退していく。




