浅井・朝倉家の滅亡
8月になり近江の情勢が動く。北近江の土豪阿閉貞征が織田方に寝返る。すると信長は夜中にも関わらず、岐阜から出陣する。道中の敵城を落とし、山田山に手勢を集結させた。これにより浅井と朝倉は分断されてしまう。
数日後、その日は風雨の激しい日だった。信長は馬廻りのみを連れて大獄砦を急襲する。大獄には五百ほどの守備兵がいたが、突然のことに何も出来ずに降伏した。普通なら打ち首なり何なりするところだが、信長は捕虜を解放する。
間を開けずに信長は丁野砦も攻撃する。丁野もすぐに降伏し、こちらも解放した。すると、朝倉軍は撤退を開始した。大獄・丁野が落とされ、形勢不利と判断したようだ。信長はこうなることを予想して、捕虜を無傷で解放したのだ。
この事を予想していた信長は、諸将に敵が撤退したら直ちに追撃するように命じていた。しかし追撃を開始する者はおらず、信長が自ら先手で追撃を開始する。この報に慌てて追撃を開始した諸将は追い付いた信長に叱責される。その中で佐久間が信長に抗弁して怒りを買ったという。
退却する朝倉軍を追撃する織田軍は、刀根山で敵軍を補足する。敵勢を次々と討ち取っていき、その首の数は三千にも及んだ。その中には美濃の戦国大名だった斎藤龍興のものもあった。
織田軍の猛追に朝倉氏は本拠の一乗谷を捨てて逃走する。逃亡した朝倉家当主朝倉義景は一門の朝倉景鏡に裏切られて切腹させられる。景鏡は義景の首を持って投降してきた。
信長は越前を前波吉継に任せて、虎御前山の本陣に戻った。
朝倉家の救援の無くなった小谷城は羽柴秀吉に京極丸を落とされて、父浅井久政と長政は分断されてしまう。まず久政の籠る小丸が攻められ、久政は切腹して果てる。翌日に信長が指揮を執り本丸が落城した。
戦後の近江は羽柴秀吉に与えられ、鯰江城に籠る六角義治を柴田勝家に攻撃させて降伏させる。これで近江は平定されて、信長は美濃に帰還した。




