北近江に出陣する
七月信長は嫡男奇妙丸の初陣に伴い、父子揃って北近江に出陣した。翌日に横山に着陣して、次の日には虎御前山まで進軍する。そして小谷城に押し寄せ、城下まで攻め上がった。先手はそのまま陣を敷いた。
その翌日以降も各地に兵を送り、各所を攻撃した。この中には一揆勢の籠る寺もあり、一揆勢と僧侶まとめて切り捨てられた。これらの行動を見逃してしまった浅井勢からは人心が離れていった。
小谷城攻囲のために虎御前山で要害が築かれ始めると、慌てた浅井家は朝倉家に援軍の要請をする。このとき浅井家は一揆勢が織田軍の退路を塞いだから今が好機、と嘘の情報を伝えていた。
なぜ我々がこの情報を知っているかと言うと、間者狩りをしているからだ。この時代には遠く離れた相手に情報を送るには、人に書状を持たせて送るしかない。しかしそれが確実に届くという保証はどこにもない。そこで少しでも確率を上げるために複数人の者を送るのだ。その内の何人かを捕らえたのだ。
この嘘情報を信じた朝倉家は、当主自ら兵を率いて出陣した。小谷に着陣した朝倉勢は、そこで初めてこの情報が嘘だと知る。意気消沈した朝倉勢は高地である大獄に滞陣してしまった。
これを知った信長は朝倉勢に小勢で攻撃するよう命じる。これに若い衆が勇躍、二つ三つの首を取ってきた。それに功に応じて褒賞を出すと、ますますやる気を出した。そんな感じの対陣が続いていたら、朝倉勢から降伏する者が続々と出てきた。
ほどなくして虎御前山の要害が完成する。巧妙かつ堅牢に設計されたこの要害は山上から四方を見渡すことが出来た。北には浅井・朝倉軍の滞陣する様が見え、西には琵琶湖とその向こうに聳える比叡山が見渡せたそうだ。こんな風光明媚な要害は今まで見たことがない、と言われるほど素晴らしい物のだったらしい。
虎御前山から横山城までは距離があったので、信長はその間に連絡用の砦を築いた。虎御前山から砦までの道は悪路だったので改修工事を行い、敵側の道端には堀と土塁を築いて川の水をひき入れた。
これにより対陣の脅威が低下したので、信長は横山まで下がることにした。その前に朝倉勢に一戦交えよう、と使者を出したが無視された。信長と奇妙丸が横山に入ると朝倉勢が攻撃を仕掛けてきた、難無く撃退した。




