御所造営
永録十二(一五六九)年の一月四日、三好三人衆が義昭公の御座所である本圀寺を襲撃した。この襲撃は将軍護衛のために残していた織田家臣と幕臣が奮戦し、撃退した。この事は、戦後すぐに岐阜へと送られた急使により信長に知らされた。
急使は六日に岐阜に到着し、信長は直ちに上洛することを下知する。しかしこのときは運悪く、岐阜から京に続く道は大雪が降っていた。だが信長は一切構わず、本来なら三日かかるところを二日で走破して京に入った。
このとき俺は運が良いのか悪いのか岐阜に居た。京残留組を代表して新年の挨拶をするためにたまたま登城していたのだ。運良く戦に巻き込まれる様な事はなかったが、運悪く雪中強行軍に参加することになってしまった。
この行軍だが最悪だった。まず寒い。凄く寒い。指先の感覚など早々に失せてしまった。しかも速さ重視で安全面の配慮など一切なかった。そりゃ通常より早く着いたけども、凍死者が出たから。信長の面目は保たれたが、俺の体調は崩れたから。
本当に三好三人衆は空気を読んで欲しいよ。せっかく正月を岐阜でぬくぬくと過ごしていたのに、本当にに勘弁して欲しい。権力闘争から脱落した俺に過度の期待など集まりません。
ただ、今回の襲撃を受けて本圀寺では防御に不安を感じるとして、二条に新たに御所を造営することになった。職人は尾張、美濃、近江、伊勢、三河、山城、和泉、河内、摂津、大和、若狭、丹後、丹波、播磨の一四カ国から集められた。
洛中洛外から呼び寄せられた鍛冶・番匠が諸国から届けられた材木を積み上げていった。工事はおよそ二ヶ月で終わり、信長が連れてきた女中の顔を覗き見ようとした足軽が無礼討ちされる事件もあったが、無事完成した。
御殿の内装には金銀が散りばめられ、庭には洛中洛外から名石・名木を集めて泉水、遣水、築山が造られていた。……防御のために造ったんじゃないの? 素人の俺には分からないが、きっと本圀寺よりは護り易いんだろう。そうに違いない。
信長は他にも禁裏の大修復を命じたり、茶入れなどの名物を金に物を言わせて徴収して岐阜に帰って行った。織田家の財力半端無いな。




