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刹那に色を  作者: はるの そらと
夏ノ章 小梅
32/50

三十一.梅はすっぱい(5)


 ふと我に返れば、目に映った影法師がずいぶん長くなっていることに気付いた。公園の時計台に目を向ければ、もう三時間以上いたことになる。

 思わず、鋭い吐息が口から洩れた。

 ここ最近、ぼんやり過ごしている日が多い。時間を無駄にしていることは、わかっているが、どうしても一人っきりになれる時間が欲しかった。

 昨日と同じように、ブランコに乗って過ごしていれば、公園で遊んでいる子供の数がいつもより少ないことに気が付いた。

「帰ろうぜ!」

 そう言って、少年たちが駆けていく。まだ、日は落ちていない。いつもは、茜色が消え藍色に空が染まるまで遊ぶはずなのに。何故?

「早くしないと、お祭り、始まっちゃうよお」

「灯篭流しは、夜だろ? まだやらねえよ!」

「でも、屋台はもう出てるよな」

 夏の暑さにも負けず、汗を輝かせながら、目の前を走り抜ける子供たち。その会話から、今日が灯篭流しの日だと知った。

 灯篭流し、か。

 それ自体に興味もない時雨にとっては、関係のない話だ。時雨は、家に帰ろうとブランコから立ち上がった。

「案外、オマエもヒマなんだな」

 カラスの鳴き声が頭上から降ってきた。が、それより耳障りな男の声に、時雨は眉をひそめた。二度と顔も合わせたくない男が姿を現す。

 無視して公園を出ようとすれば、男は不愉快な笑い声を上げ出した。

 狂ったか。

 嘲笑の笑みを浮かべつつ、時雨は声のした方を振り向くことなく、公園の外へ出ようとした。

「……まあ、待てや」

 渋々振り向けば、真剣な面持ちの男がいた。

「話がある。お御前にとっても悪い話じゃないはずだ」

「聞く耳なんて、ない」

 そう言えば、国見は声を上げて嗤った。

 何がそんなに面白いのか、懸念の視線を向ければすぐにその訳がわかった。

 今ほど自分を殺したいと思ったことはない。

「オマエ、案外頭いいのな」

 馬鹿にしている。

 時雨は、音を立てそうなほど奥歯を噛み締めた。

 聞く耳を聞耳となぞって、馬鹿にしたのだ――。この男、すべてを知っているくせに、よくもぬけぬけと言えるものだ。

「……今日はいないのね、貴方の腰巾着」

 鼻で笑いながら言えば、国見もまた笑い返してきた。

「そりゃ四六時中いたらうっとおしくてたまらねえ。アイツは、オレの(こま)ではあるが、一応一個体だ。縛りっぱなしも可哀想だろ? オマエみたいに」

「……貴方、私と交渉しに来たんでしょ?」

 これではまるで、どこに本心があるのかわからない。取引をしたいのか、したくないのか。

 それがわかったのか、国見は口角を上げ、頭をがりがりっと掻いた。

「オレは、気まぐれ屋だからな」

 時雨は何も答えず、ただ相手を睨んだ。

「とにかく、だ」

 国見がまとっていたふざけた雰囲気が一気に掻き消えた。時雨を見るその視線は、判決を下す者の目だった。

「オレと手を組まないか?」

「私に見返りは?」

 どうせないのだろう。組んでも利害が一致しなければ、そもそも交渉も取引もない。

「オマエは、あいつの幸福を望んでいるんだろ?」

 無言で返せば、国見はその先を話し始めた。

「だったら、オマエはオレに協力すべきだ」

 自分勝手にもほどがある。呆れてものも言えない。

「何事もきっかけが重要だ。オマエは、ここにある奴を連れて――」

「無理」

 きっぱり断れば、国見の眉間に深い皺が寄った。

「もう、決めたの」

 この世界を守る、と。

「……オマエはやっぱりわかってない」

 何が、とは聞かなかった。けど、国見は言葉を続けた。

「幸福とは、ソイツが望むことだけがすべてじゃねえ。望まず、むしろ避けていることが後々幸福になることだってある」

 時雨は、目を細めた。国見の言っていることはよくわからない。だが、もう何が何でも決めたのだ。

 時雨は、肩に乗った髪を払いのけた。

「貴方に何を言われようが、関係ないし指図を受けるつもりもない」

 国見は時雨にこれ以上何を言っても聞かないのを察したのか、思いっきり舌打ちをした。

「……自分に酔っているのか、それともただのバカなのか。知らなきゃ不幸、知ってりゃ地獄。ソイツにとって幸福な世界は、まわりにいる人間を不幸にして成り立たせている世界ってな。――どっちにしろ、滑稽だ」

 苦虫を噛み潰したような表情をする国見を見て、時雨は何も言わなかった。そして、ただ立ち尽くす国見を置いて、その場を後にした。

 その足取りは、何の迷いもなくある場所を目指していた。


   ◇


 野良は必死で考えていた。

「――ヘンね」

 小梅の一言に、野良の肩は大きく跳ねた。

 口から聞こえるんじゃないかと思うくらい、うるさく鳴る心臓の音に気を取られていれば、小梅は鼻がぶつかりそうなほど顔を近づけてきた。

「いつも騒がしいのに、さっきから黙ったまま。……ねえ、まさかとは思うけど、何か変な物でも拾い食いした、なんてことはないでしょうね?」

「す、するわけないだろ!」

「うるさい」

 小梅に叱られ、口を閉じるだけでなく息も一緒に止めた。

 思いのほか大きな声に、自分でも驚いたのだが、それは小梅にはわからないことである。

 すると、前を歩いていた華菜多が、振り返った。

「どうかした?」

「なんでもないよ」

 と、笑顔で答える小梅の隣で、野良も頭を上下に振った。

 知っている人なのに、着ている物が違うだけでこんなに変わるのかと思い知らされた野良は、まだ、華菜多の顔をきちんと見ることができないでいた。

「ほんと、あんたって奴は――」

 何だよ、悪いかよ。

 視線だけで訴えれば、小梅もそれ以上は何も言わなかった。

「野良くんは、灯篭流し、初めて?」

「そ。初めて」

 華菜多の突然の問いに、答えられず慌てふためいていれば、見かねた小梅が代わりに応えた。

「……本当はこんな奴、つれてこなくてもよかったんだけど」

 ぼそりと呟かれた一言は、華菜多の耳に入ることはなかったが、野良にはきちんと聞こえた。

「梅ちゃん、それはひど――」

「うちの名前、気安く呼ばないでくれる? 学習能力のないバカ猫」

「ごめん!」

 思わず大きな声で返せば、足を思いっきり踏まれた。

「だ、か、ら」

 笑みを浮かべる小梅。だが、野良にははっきり見えた。その背後に般若がいるのが。

 野良は、とっさに口を両手で覆った。悲鳴を上げそうになるのを必死でこらえる。

「いきなり大きな声出すんじゃないわよ!」

 反射的に出てきた言葉を呑み込んだ野良は、うっすら涙の膜を張った両目で頭を上下に激しく振った。

「初めてかあ。それじゃあ絶対びっくりするよ……ってあれ? 野良くん、具合悪いの?」

 不幸中の幸いと言っていいのか、どうやら華菜多には今の会話は聞こえていなかったらしい。

 だが、次の瞬間、目の前まで来てひざを折り、ひんやりとした手で額を触られてしまえば、視線を泳がせながら、顔は真っ赤になった。

「野良くん、熱があるみたい。……このまま見に行っても悪化する――かもしれないよね」

 腕を組み、ほんの少し考えたあと、華菜多は小さく「よし」っと呟いた。

「梅ちゃん、一人でも大丈夫よね?」

「……華菜ちゃん、行かないの?」

「うん。野良くんこのままにしておけないし。とりあえず、叔父さん家に戻ろうかなっと思って」

 笑顔の華菜多を品定めするかのようにじっと見た小梅は、気づかれないようにふっと息を吐くと華菜多に言った。

「うちが面倒見るから、華菜ちゃん、行ってきなよ」


   ◇


「ほんっと! 崖の上から蹴り飛ばして、腐葉土にしてやりたいわ!」

「……申し訳ございません」

 しおれる野良の前を歩く小梅は、勢いよく振り向くとふんっと鼻を鳴らした。

「まったく。あんたのせいで散々よ! ユウ君と一緒に灯篭流し、見たかったのに」

「……それならかっちゃんが最初に言ったようにすればよかったじゃ――」

 野良の言葉を、小梅のため息が遮った。

「……鈍いわね。…………それじゃあダメなのよ」

 目を伏せ、そう言う小梅は、まとう雰囲気のせいか、とても十代の少女には見えなかった。

「どうして?」

 そう言って、思わず身構えた。「馬鹿なの?」と怒声が飛んでくるかと身構えたが、予想は外れた。

 小梅はわざとらしく大きなため息を吐くと静かに言った。

「……命短し、恋せよ乙女」

「はあ?」

「胡蝶の見る、儚い夢」

 正直、小梅の言っていることが理解できない。自分で言うのもなんだが、頭はそんなによくない。詩人のような小梅の言葉に戸惑えば、小梅は再びため息を吐いた。

「あんたはわからなくていいの」

 なんだか、除け者にされた気分だ。むすっとすれば、小梅に頬をつままれた。

「怒りたいのはうちの方なんだからね! 別に体調悪いわけじゃないくせに、そう言わなかったんだから」

「それは謝るよ」

「それは謝るよ? 野良のくせに一体何様のつもり?」

 しまったと思ったときには遅かった。

「あんたのせいで灯篭流し行けなかったってこと、自覚してるの?」

「す、すみませんでした」

 でも、おかげで小梅を敷地外に出さないで済んだ。思いもよらないところで、あっさりことが上手くいったことに喜んでいいのやら、悪いのやら。

「もういい。でもその代わり、後悔するくらいこき使ってやる」

 決意にも似た小梅の一言に、野良は小梅との溝をより一層深く感じたのであった。



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