三十二.梅はすっぱい(6)
白居川の川沿いを歩く悠は、行き行く人々には目もくれず、ただひたすら川のせせらぎに耳を傾けていた。
昔から変わらないその音にほっとする自分がいる。
ここ数か月、正確には春からだが、悠を取り囲む環境は百八十度変化したと言っても過言ではない。
ちらりと背後を振り返った悠は、後ろからついてくる奏の姿を確かめて、肩を落とした。
奏がついてこなければ、華菜多たちを探しに行くのだが、どういうわけか勝手についてきた奏が気になって、思うように動けない。多分、良明に言われたことも関係しているのだろう。
はあっと肩が沈むほど息を吐けば、悠は足を止め勢いよく振り向いた。それに気付いた奏は目を丸くしたが、それも一瞬。ふいっと川へ視線を向けてしまった。どうやらまだ、悠の厚意に気付いていないらしい。
馬鹿馬鹿しい――そう言って足早に雑踏の中に紛れ込んでしまえば楽なのだが、悠にはそれができなかった。
顔の筋肉が痙攣しているのをかすかに感じながら、悠は奏のもとまで来た道を戻った。
「鬱陶しい! 来るならちゃんとついてこい!」
語気を荒げても、奏はいつもと同じく、怖がる様子もなく人形のように動きの乏しい表情のまま、小さく頷いた。
悠たちは、灯篭の流される地点より上から来たため、それほど人とすれ違わなかったが、ここまで来ると、人ごみがひどい。屋台も出ているものの、たったの二、三店。ゴミのポイ捨てなどによる環境破壊を危惧されてということもあるが、それでもやはり今日の目玉である灯篭流しの影響力は凄まじい。
「華菜多たち、どこにいるんだ?」
すぐに探し出せそうな気がするのだが、案外そうでもないらしい。どこかで待ち合わせしておけばよかったなと後悔し始めた矢先、後ろからついて来ていると思っていた奏が目の前を通って行った。いや、流されていったと言った方がしっくりくる。
「あの、バカ」
奏はそのまま人の波に乗るように、奥へ奥へと流されていく。
そっちに行ったら、川辺から遠くなるだろ。
内心焦りとも怒りともつかない感情を抱きつつ、悠はその跡を追った。
◇
数日前だ。例の少年を見たのは。
いつものように一人白龍の瀧の前で黄昏ていれば、ふらっとどこからともなく少年は現れた。
「……少しだけ、面倒なことになった」
隣に座った少年は、少年とは思えないほど深刻な目をして呟いた。
「多分、このままだとあいつに滅茶苦茶にされる」
だから、すこしだけ悪戯をしてやったと少年は笑いながら言った。
「ここの空間をちょっとだけ、いじった。まあ、簡単に言えば結界をはった」
ぐっと伸びをした少年は、奏の顔を覗き込むと「小梅をここから出しちゃだめだよ」と言った。
意味がわからないと眉を顰めれば、「随分表情豊かになったな」と感心されてしまった。
「あの子が気づいたみたいだから、特別気に掛ける必要はないんだろうけど。でも、言っておこうと思って」
「だから、何を――」
鈍いなーと少年は、口をとがらせながら言う。
「小梅を隠したんだって、結界で。あの二人からね」
そう言って少年は、現れたときと同じようにいきなりいなくなった。
◇
野良と小梅は、華菜多と別れてからというもの、まっすぐ家には向かわず、森の中を当てもなく彷徨っていた。別に迷子になったわけじゃない。
人迷う鎮守の杜は、小さな二人からしてみれば、格好の遊び場だ。誰がどこからどう見ても同じ道にしか見えない木々の中でも、どこにいるのかちゃんとわかっていた。
だが、これはさすがに華菜多や悠はもちろん、良明にもできないだろう。
日も傾き、徐々に薄暗くなっていっても、二人は平然と歩みを続けた。
「……戻らないの?」
痺れをきかせた野良が、怯える子犬のように尋ねた。
「当然よ」
小梅はまだ根に持っているのか、野良の顔もまともに見ようとしない。胸のうちが重くなる。だが、それもほんの一瞬だった。
けっかおーらいってヤツだよな!
俯き加減で歩いていた野良が顔を上げたそのとき、いきなり目と鼻の先に壁があって反射的に止まった。無意識に仰け反ったことと足場が斜面だったことが相まって、そのまま転んだ。
そのまま視線を上げれば、目の前を歩いていた小梅が木のように突っ立っている。
「いきなりどうしたのさ、うめちゃ――」
そう言いかけて、野良は途中で口を閉ざした。
小梅は石にされたかのように止まってはいる。が、目だけは一心に何かを追っていた。
そのただならない雰囲気に、野良も小梅の見ているものを探してみたものの、何も見当たらない。小梅にしか感じ取れない何かがそこにはいるようだった。
「……死神めっ!」
牙をむき出しにする獣のような表情で呟かれた一言に、思わず寒気が走った。
次の瞬間には、脱兎のごとく、走り去る小梅の背中を見送っていた。
死神って一体――。
だが、考えている時間は野良にはなかった。
小梅が駆けて行った方向、それは外に出る道――。
「あー! 梅ちゃん! 待って! 止まってえ!」
野良は慌ててそのあとを追った。
◇
「あんた、一体何のつもりよ」
息を乱す様子もないまま、その者の前に立ちふさがった。
黒く美しい絹糸のように長い髪によく映える白い肌。大きな目とはっきり通る鼻筋は、誰からも愛でられる人形のようなその少女は、突然森から飛び出してきた小梅に驚きもしなかった。
時雨は、まるで何でも見通していたような目で小梅を見た。それが気に食わなかったのか、小梅は大きな舌打ちをした。
「ここに近づかないでって散々警告したわよね? 死神女」
今にも食って掛かりそうな小梅の殺気にも、時雨は動じなかった。
「私から言わせれば、死神は貴方の方」
そう言えば、小梅は鼻で笑い飛ばした。
「生まれたてのネズミに人生を説かれた気分だわ。――言っておくけど、ユウ君は今ここにはいない」
「わかってる」
「……じゃあ、何用なの?」
「瀧に――」
「もういい」
次の瞬間、小梅は時雨に向かって飛びかかった。時雨は、神社の敷地から外れる鳥居の前に立っていたが、身の危険を感じたのか、慌てるようすもないまま、その鳥居をくぐり外に出た。コンクリートで舗装された道で一人立つ時雨の姿は、薄暗いせいか、どこか幽霊のようである。
その態度は、小梅を逆撫でするには十分だった。腕を伸ばし、掴もうとした瞬間。前へと行っていた小梅の重心は当然後ろに引っ張られた。
「梅ちゃん、ダメ!」
「ちょっ! 離しなさいよ!」
鳥居の前で暴れる小梅とそれを後ろから抑える野良に一瞥をくれたあと、時雨は何事もなかったかのように、その場から去って行った。
その姿が見えなくなってようやく、小梅は暴れるのを止めた。ほっとして、抑えていた力を緩ませた瞬間、ぱんっと藍色の空高くまで痛々しい音か響いた。遅れて頬に熱が出る。小梅に平手打ちされたことに気付くまで、ほんの少し時間がかかった。
「あんたのこと、一生許さない」
長い石階段を上る音を後ろに聞きながら、野良は力なくその場に座り込んだ。
脳裏に焼き付いて離れない、さきほどの小梅の顔。眉を吊り上げ怒る小梅の目には、うっすらと涙の膜が張られていた。
ははっと乾いた笑い声が口から洩れる。
「……今のは、さすがに……キツイよ」
美しい夏の夜空には目もくれず、両腕の中に顔を埋めた。
◇
くっくっと笑いを押し殺していた国見だったが、いてもたってもいられず、腹を抱え笑い出した。
隣にいる火ノ根は、何にも言わずその様子をただ眺めている。
「面白い。実に滑稽だ!」
そう言う国見は、欲しがっていたオモチャを与えられた子供のように、嬉しさを振りまいていた。――狂気にも似た感情を。
◇
悠が奏を捕まえた頃には、とっくに日は落ちていた。
「もう、始まっちゃったか」
腕時計を見てぽつりと呟けば、肩を叩かれた。何だよ、と振り向けば奏は明らかに人気のない森の中へと行ってしまった。
あいつはどれだけ僕を振り回せば気が済むんだ。
悠は、自分勝手な子供を相手にしている気分になりながら、そのあとを追った。
はあっと大きくため息を吐けば、軽く咳き込んだ。奏がこちらを振り向いたので、珍しく心配でもしてくれたのかと思ったが、どうやら違うらしい。
ゆっくりとした歩みで奏のいる場所まで行けば、暗い森の中とは違い、明るい場所にいることがわかった。まるで光と闇の境界線が引かれているみたいだと思いながら、奏の隣に立った。すっと指の指す方を見れば、思わず息をのんだ。
……こんな場所があったのか。
下から光が沸いている。いや、差していた。この真下は、灯篭流しをしている真っ最中の白居川だった。
一つ一つは手の平に乗りそうなほど小さな灯篭だが、それが集団となると見方が変わる。
光る川は、地上の天の川のようであり、うねりながら空を飛ぶ龍のようでもあった。
その光景に悠の目は釘づけになった。
いつもすぐそばで灯篭流しを見ていたせいか、初めて全体を見たその衝撃が、体を貫いた。
◇
心ここに非ずといった表情で、熱心に灯篭流しを見ているのを横目で盗み見れば、いつからいたのか、例の少年も同じような表情で眼下にある光の龍を見ていた。
「……こんな灯篭流し、初めて見た」
呟かれた言葉は、どうやら奏にしか聞こえないらしい。
「毎年さ、灯篭流しは欠かさず見に来ていたんだけど」
そう言って少年は奏に視線を向けた。
「……こう、心の底から楽しいとか思うと、この時間が永遠に続けばいいのになって毎回思うんだ」
……それは、否定しない。
「でもさ、後になってから『あの頃に戻りたい』って思うこともある。それは、今この瞬間が永遠に続けばいいと思ったのとはちょっと違う」
「どう違う?」
そうだな、と少年は夜空を仰ぐとこう言った。
「後悔先に立たずってことだな」
そう言って笑う少年の姿が、何故かその横にいる悠と重なって見えた。だが、次の瞬間には、少年は夜の風に攫われるように消えてしまった。
◇
「……夢」
「ん?」
奏が何か言ったが、うまく聞き取れなかった。顔を向ければ、目が合う。
「キミには夢があるか」
いきなり何を言い出すんだ?
「ないよ」
「何故?」
「何故って言われても――」
正直、考えたこともない。
「そうか」
奏はそれだけ言うと、再び真下を流れる白居川に目を向けた。
いつもと違い、淡い光で包まれた白居川。一度目を逸らしてしまえば、全部なくなってしまいそうな儚さを覚えるこの空間を、救い上げて箱の中に大切にしまっておきたいと思う気持ちは、愚かと呼ばれるのだろうか。それでも、どうにかしたいと思ってしまうのは、この瞬間を留めておきたいという自分勝手な欲望だ。
けど、これは灯篭流し。先祖たちがあの世へと戻るための光。
この一つ一つの儚い光は、消えゆく定めなのだ。そうと知っているからこそ、どうにかしてずっとその場に居続けてほしいと願ってしまう。
「……まあ、無理なんだけど」
不思議そうにこちらを見る奏と目が合って、思わず笑った。説明してやれば、奏は神妙な面持ちで黙り込んでしまった。
「いくら人間が他の生物に比べてできることが多いからって、万能の神には遠く及ばない、ってことだろうな」
そう言えば、低くそれでいてしっかりとした声が耳に届いた。
「……万能の神など、存在しない」
「そりゃあ神様なんて存在しているかわからないけど――」
「いや、そういうことじゃない」
じゃあどういうわけだよ、と言おうとしてやめた。奏自身、気づいてないだろうが、その顔は深刻そのものだった。
夢、か。
その場に座り込んだ悠は、頬杖をつきながら、川から空へと視線を上げた。灯篭の光よりも儚く、小さな輝き。その無数の数に目を向けながら思った。




