三十.梅はすっぱい(4)
「あーもう!」
いきなり耳に飛び込んできた声に、野良は飛び起きた。
「あつい! 暑すぎる!」
小梅がわざと大きな音を立てながら廊下を歩いているようだ。
太陽は、感情をも操ってしまうなんてすごい存在だなと、再びまどろもうとしたときだ。
「今日、ユウ君いるし、白居川に連れてってもらおうかな」
小梅にとってはただの独り言であろうその一言は、野良にしてみれば眠気を吹き飛ばす鞭に等しかった。
「ダメダメダメダメ! 行っちゃだめ!」
「……なんで?」
じっと野良を見る目は、明らかに何かあると疑っている。野良は唾を飲み込んだ。
「えーっと。……今日、今日っていい天気、じゃん?」
「……それがどうしたっていうのよ」
ああ。どうしてこういうとき、言葉が出てこないのか。野良は頭を抱えたい気持ちを必死で抑えた。
「あ、うん。……暑い、よね」
「野良」
「……はい」
「あんた、何企んでるのよ」
「た、企んでるなんて! そんなことするわけないじゃん!」
だが、じっと見る小梅の目は明らかに野良を疑っている。
「川……じゃなくて瀧! 瀧に行こう!」
「なんで?」
「……え、えっと、うん。ゆっくんが行く……みたいなこと言ってた気がする。……そ、それに、明後日灯籠流しでしょ? 別に今日行かなくても明後日ゆっくんと――」
「ふーん」
とっさに思いつく限りの言葉を並べた野良は、今にも心臓が口から飛び出しそうなほど胸が鳴っていた。
小梅は、それでもどこか思うところがあるような表情で野良を見ていたが、いきなりふいっと顔をそむけてしまった。
「まあ、いいわ。ユウ君瀧に行くなら、それについて行くし」
そう言って、小梅は台所へ消えていった。
その後ろ姿が見えなくなった途端、野良は溜まりに溜まったものを吐き出すように、大きく息を吐いた。
縁側に再び腰を下ろした野良は、ぐっと大きく伸びをすると、そのまま両手で頬を叩いた。
しっかりしろ、オレ!
頬を叩いた痛みは、夏の暑さですぐに消え去った。
◇
そして迎えた、八月十六日。
ヒグラシが鳴く中、悠は一人竹箒を持ち、ぼんやりと空を見上げていた。柄に顎を乗せながら見る空は、いつもと違い、雲のない空だった。久々に見た茜色が嬉しいのか、自然と視界が滲む。
「こら! そうやって体重かけると先が広がっちゃうでしょ!」
カラスが夕日に向かって飛んでいくのを見送っていると、背後から華菜多の声が飛んできた。
うるさいのが来たと振り向けば、目を丸くした。
「……その恰好」
悠の反応に満足したのか、華菜多は口元に笑みを浮かべた。
「どう? 似合う?」
夕日のせいか、頬を赤らめた華菜多は、両腕を少し上げ、着ている浴衣を見せた。
白に近い水色は、太陽に反射する水面のようだと思った。それに、描かれた金魚の模様がそれをより一層際立たせている。
「……絵馬だと思った」
「へ?」
「いや、絵馬と同じような音がしてたからさ。下駄、だったのか。……けど、まあよくよく考えてみれば、絵馬より音が重かっ――」
「ええ、はい。そうですよ。カランカランなんて、軽やかな音立てた覚えは微塵もございませんけど?」
逆鱗に触れたことに気付いたときには、もう遅い。
「馬鹿。……大馬鹿者っ!」
ぶつぶつと呪文を唱えながら遠ざかる華菜多に声をかけることなんて、できるわけもなかった。
悠は、肩が沈むほど息を吐くと、再び空を仰いだ。
茜色に染まった空を次はいつ見られるのか。
夏の夕日は、目に映る世界そのものが朱色に染まる。砂利を踏み鳴らし向かった先で、悠はそれに手を伸ばした。
カラカラカラ、と軽快な音を奏でる絵馬。それさえ日中とは違い、ほのかに熱を持っているように見えるから不思議だ。
人の願いを形にしたものだ。だけど、絵馬も永遠ではない。
形ある物は、いつかなくなる。人がそうであるように、その人の願いもいつしか消えてしまう。当たり前かもしれないが、そこにある儚さに魅かれるのか、悠は絵馬という存在をどこか愛おしく感じる。それは、日本人が桜を好むのと似ているのかもしれない。
願い、か。
カラカラカラと音を立てた絵馬も、しんっと黙った。
「……いつまでここにいるつもりなの?」
突然かけられた声で我に返れば、そこには飽きれた顔をした華菜多が立っていた。華菜多の両脇には小梅と野良がいる。
「まったく。夕方だからってまだ蒸し暑いのに、ぼーっと突っ立っちゃって。熱中症になっても知らないから」
蒸し暑い、ねえ。
うちわを持ち仰ぐ華菜多は気づいていないのだろうか。数時間外にいても、汗一つかいていない人間が目の前にいることを。
「じゃあ、先行ってるから」
「ちょっ、ちょっと待て」
「何?」
さっきのことをまだ根に持っているのか、華菜多は、まだ怒っているようだ。
「小梅と野良、連れて行くのか?」
「ダメなの?」
「いや、そういうわけじゃ……」
ただ、聞いただけなのだが……。こういうとき、女は面倒くさいと心底思う。
「それじゃあね」
ひらりと手のひらを振る華菜多の後ろを、ちびっ子二人組が親鳥について行く雛鳥のようにくっついて行った。
ああ、もう。
頭をがりがりかいて、悠は息を吐いた。
あとで何かおごってやるか。
「――キミは行かないのか?」
「行くよ」
背後からかけられた声に、悠は背中を向いたまま答えた。顔はもちろん口にも感情を出さない奏も、灯篭流しには興味があるのだろうか。
「ただ、さ。久々に見れたこの空の色の変化が思いのほか面白くって」
そう言って、いかにもロマンチックな人間の言葉じゃないかと思い、一人笑った。




