二十九.梅はすっぱい(3)
縁側は、小梅のお気に入りの場所だ。
日中は、良明を始め悠も奏も家にはいない。そのため、小梅の私城と化している。ただ不満なのは、言うことを聞いてくれる、家臣が一人もいないことだ。
日の当たりが良い縁側に布団を敷き、その上で猫のようにくつろいでいれば、少しだけ小腹が減ってきた。
確か、ヒコのとこの和菓子があったっけ?
だが、そのためだけに起き上がるのは億劫だ。このまま寝転んでいたいのと、何かつまみたいので、どちらを優先させようか迷っているときだった。
「日向ぼっこ、いいなあ」
「あんたは毎日してるでしょ」
小梅は、声のした方を見ずに答えた。
「でも、布団の上とか最高じゃん。んー、お日様の匂いがする」
「馬鹿猫。これは、わたしが用意した特別席なの。でも……そうね、ちょっとだけなら貸してあげてもいいわよ?」
「本当か!」
飛びついてきた野良の顔を見て、小梅はにやりと笑った。
「もちろん、タダとはいかないけどね」
そう言って、野良は小梅に言われるがまま、台所から和菓子を持ってくるはめになった。
いつもじゃないけど、従者みたいな奴がいるのは便利ね。
小梅は、家の中に消える野良の後姿を見ながら思うのだった。
◇
小梅から見えなくなった場所で、野良はふと立ち止まった。
言えない――。
野良の目には、先程の光景が映る。
言ったら、確実に小梅は今のように笑えなくなるだろう。
……大丈夫。
野良は台所へ向かった。
そうならないよう、オレが注意していれば、絶対に、大丈夫。
◇
猛暑も本格的になってきた――らしい。
らしいというのも、不思議なことに、悠には「夏が来た」という実感どころか、夏の暑さをあまり感じないのだ。
これはもう、一種の病なのではないのだろうかと気が気じゃなかったが、そのうち馬鹿馬鹿しくなってやめた。
病院に行くという選択肢は、なかった。
もちろん、原因はこの「目」のせいだ。
――体には問題はありません。あなたの精神状態がおかしいんじゃないですか……。
そう言われる気がして、行けないのだ。
とりあえず、身体にも精神にも害はないのだからこのままでいるつもりである。
「そろそろ、盆の時期だねえ」
カランっと氷の入ったコップから涼しげな音が立つ。麦茶を一気に飲み干した良明は、コップの水滴で濡れた食卓の上に、空のコップを置いた。
「今年も白居川の送り火に行くのかな?」
良明の問いかけに、悠は頷いた。
「そりゃ毎年行っているし、行かない理由もないから、行くつもり」
そう言って悠も目の前に置かれたコップを手に取ると、一気に飲み干した。
盆は仏教から来たものだと思う人がほとんどだろうが、実際先祖を迎えるための「迎え火」、送るための「送り火」などは、仏教というより神道寄りである。
まあ、盆は仏教であり神道だと考えれば間違いはない。そのため、この時期宮司である良明もそれなりに忙しかったりそうでなかったりする。まったく、仕事をしている様子がないのが不思議だ。……実際、きちんとやっているのか不安になる。
胡瓜と茄子でできた馬と牛が飾ってある座敷を見て、どこにでもあるお盆だといつも思う。
「今年の灯篭流し、晴れるといいねえ」
去年は雨だったから、と良明はしみじみとした様子で言う。
「まあ、雨は雨でまた趣があったけどな」
「お、趣……! ユウ、お前そんな難しい言葉、知って――」
「知ってるよ」
まったく。人を何だと思ってるんだよ。
悠が毎年のように行く白居川の灯籠流しは、この町のちょっとした名物でもある。
この神社の御神体である白龍の瀧。その水は、森を通り岩や土を削って、やがて町を流れる川になる。それが白居川だ。
町の中心を流れるこの川は、あまり大きい川とは言えない。だが、夏場は地元住民の憩いの場であり、透明度の高い水は魚たちにとって生きていく数少ない場所であった。
「ま、今年も行くなら野良くんや奏も連れて行ってやってくれ」
あの光景を見てないなんてかわいそうだからな、という良明に、いやです、なんて言えるはずもなく――。
「……覚えてたら」
それだけ言って悠は自分の部屋に戻った。
◇
「ここで間違いねぇんだよな?」
その言葉に火ノ根は静かに頷いた。
「んだよ、結構めんどくせぇことになってんなあ」
頭をガリガリかきながら、国見は吐き出すように言った。国見と火ノ根は、大鳥居の前に立ち、 その先にある社を見た。
「で、オマエが会ったっていう奴はどこにいたんだ?」
国見が問えば、火ノ根はゆっくり腕をあげた。人指し指が指すその先は深い緑で覆われた森しかない。
「ふーん。なるほどな。この辺一帯覆ってるってことか。で、オマエの行ったところはギリギリその範囲じゃなかったと」
――おもしろい。
そう言う国見の顔は、獲物を狙う獣のようであった。
その顔を横目で見た火ノ根は、意地でも入るつもりだと察した。こういう時の国見には、近づきたくないのが本音だ。
火ノ根は気づかれないよう、そっと息を吐いた。
◇
「時雨ちゃん、夏休みは何するの?」
……夏休み?
ほんの少し前。明日から夏休みというときに、クラスメイトから訊かれた一言。
正直、皆が嬉しいこの長期休暇も時雨にとっては苦痛でしかない。
そして、今。
サングラスをかけたあの男から言われた言葉が、魚の骨のように胸に突っかかる。
私はこんな感情を、知らない。
それは、言葉にすれば不安なんだろうが、口に出してしまえばどこか安っぽく、別のものになってしまう気がする。
自然と足が止まる。明確な目的もないままぼんやり歩いていれば、やはりここに来てしまった。
風が吹き、雨のような音を奏でる深い緑の葉。その緑の中に埋もれる朱色。神社の鳥居は、時雨の考えなどお見通しと言わんばかりに立ちはだかっていた。
苔蒸した石階段に腰をかける。
鳥居と鳥居の間にある、長く急な石階段は、来る者を拒んでいるようにも見える。時雨はたまたま目に入った青い空にある入道雲をぼんやり眺めた。
私はなんでここにいるんだろう。
五月蝿い蝉の声と刺すように痛い日差し。風もなく、じめっとした空気で髪が肌に絡まり気持ち悪い。ここはどこにでもある、とある夏の日常。
そう、どこにでもある時間だ。
蝉が鳴いて、暑くて、眩しい――。
時雨はそっと目を閉じた。
◇
「……にしても、あちいな」
パタパタと手で仰いでも、ぬるい空気があたるだけで、涼しくない。
「……オマエ、よくそんな格好でいられるな。あつくねぇのかよ?」
「別に」
隣りに立つフードを深くかぶった火ノ根に言えば、素っ気ない返事が返ってきた。
相変わらず可愛げのない奴である。だが、有能なのは事実だ。長袖長ズボンの格好で、かつフードもかぶっているとなると、やはり見ているこちらはそれだけで熱くなる気がしてならない。せめてそのフードだけでもとればいいと思うのだが、こればかりは、何を言っても聞かないだろう。
「盆、か」
ふっと鼻で笑えば、国見は木の根に背を預けた。
さて、どうしようか。
いろいろと考えを巡らせているときだった。
「……あまり干渉しないのが、貴方の流儀でしょ?」
頭から降ってきた知った声に、国見はめんどくさそうにその主を見た。
どこか買い物をしてきたのか、紙袋を抱え立つ着物姿の女は、この町でほそぼそと和菓子屋を営んでいる。なんでそんな面倒なことをしてるのか、国見には理解できないが。
「……時と場合によるんだよ」
「ずいぶん、自分勝手ですね」
「……うるせぇ」
とっとと消えろと思っても、日子は穏やかな笑みをたたえながらその場に立っていた。
つくづく面倒な女である。
「国見、わかってると思いますけど、あまりにも目に余るようなら……」
「あー、わかってる、わかってる」
本当、五月蝿いババアだ。
国見の苛立ちがわかったのか、火ノ根がかすかに殺気を放った。それに気づいた国見はそっとその首根っこを掴んだ。
手を出していい奴とそうじゃない奴がいる。それをきちんとわきまえるのが戦法の基本だ。もちろん、決して指をくわえて見てろ、というわけでもない。
……喧嘩の仕方も、相手によって変えられないようじゃあまだまだ子供だな。
「それでは、ご機嫌よう」
何がご機嫌よう、だ。小さくなる日子の後ろ姿を見ながら、べーっと子供のように舌を出してやった。




