二十七.梅はすっぱい
「なあ、止めないか?」
ぽかんと呆けた顔を向ける二人にもう一度同じ言葉を繰り返した。
「見夢に行くって話、止めないか?」
真剣な思いで言っているにもかかわらず、川野と山崎は腹を抱えて笑い出した。
「行けるかどうかもわらかねぇのに」
「か、風早。実はお前、そういうの一番信じてるくちかよ」
笑いこける山崎を余所に、川野は悠の肩を叩いた。
「同士だな」
にこっと笑う川野の顔を見て、悠は肩に置かれた手を払いのけた。
信じてもらえない。
こんなことで歯痒い思いをする日が来るなんて、夢にも思わなかった。
一晩考えた結果、悠は二人が見夢に行くのを阻止することに決めた。
◇
「いらっしゃ……なんで貴方が」
「なんだよ、俺がいちゃ悪いのか?」
緑水堂の開店と同時に、一人の男とそれについてくる子供が店の敷居をまたいだ。
「……ここは、貴方がくるべきところじゃありません」
普段とは違い、語気を強くする日子。そんな日子を見て男は笑った。
「安心しろ。用が済んだらとっとと出てくさ。な、火ノ根」
そう言えば、先程から黙ったままの子供が頷いた。
深く鼠色をしたフードを被っているせいで、男か女かもわからない。
「ここにいるかと思ったが……どうやら違うようだな。邪魔したな」
そう言って手のひらを振る男に日子は慌てて声をかけた。
「国見」
そう言われ、男は動きを止めると日子の方へ振り向いた。
「なんだ」
明らかに不機嫌な国見を気にする様子もなく日子は言う。
「何を探してるんです?」
「お前には関係ねぇ……でもまあ、言っといても損はねぇか」
頭をかいたあと、国見は言った。
「探してるんだよ。命を助けてやった、あの白兎をな」
◇
草むらをかき分け、小さな足を前へと伸ばした。
身の丈ほどある草は、なんだか自分の存在を外から守ってくれているようで、妙な安心感がある。
不思議だな、と野良は思った。
瀧へと行こうと思っていたのに、気分が変わった。
野良は草の上に寝転ぶと手足を思いっきり伸ばした。
ぽきぽきっと聞きなれた音がする。
心地よい風が全身を撫でていった。
目を閉じ、全身で太陽のぬくもりと優しい風を楽しんでいるときだった。
「……こんなところが、あるんだ」
突然降ってきた声に、飛び起きれば、身の丈に合わない、ぶかぶかのパーカーを着た子が立っていた。
「……誰だ? お前」
フードでよく顔が見えない。けれど、その子が放つ独特の雰囲気が野良の本能に警戒を与える。
「この辺りだと思うんだ。……ねえ、うさぎを知ってる?」
野良は、はっと鼻で笑った。
「この辺にうさぎはたくさんいるぞ」
そう言った途端だった。一瞬何が起きたのかわからなかったが、次第に首を絞められていることを理解した。
いつの間に首に手を回したのか、その速さに舌を巻きつつ、己の爪を相手の腕に立てた。
それでも、力は弱くならず、それどころかより増していくようだった。
ふざけるなよ――。
野良は獣のような唸り声をあげながら、全身を使い、その手から逃れようとした。けど、どういうことか、うまくいかない。
「窮鼠、猫を噛む――ってね」
馬鹿も休み休み言え。
苛立ちが募る。
「急いでる。ふざけてたり、隠していたら……」
いきなり首回りを締め付けていた手を離されたせいで、野良は咳き込みながら草むらの上に横たわった。
「……いいや。何となく検討はついたし。それに――」
野良は、フードで隠された目を見て、思わず背筋が凍った。
「……またね」
別れの言葉を言った途端、その子の姿は目の前から消えていた。
「なんだったんだよ、あいつ」
歯の立たない相手を初めて前にした野良は、フードの子が去って行った方向を漠然と眺めながら、底なし沼にはまりつつ、か細い木の枝を掴んだような、どこか不安の残る安心感が胸の内を支配していた。
「……こんなこと、している場合じゃあないか」
野良は立ち上がると、小さな風の塊となり、人迷う鎮守の杜を駆け出した。
◇
夏だというのに、日差しのせいか、夏だという気がしない。人通りの多い通り道を歩きながら、隣を過ぎる薄手の男女をちらりを見て思う。
本当に夏なんか来ているのだろうか、と。
世界から一人だけ追い出された気分だ。
アーケードの通りから一本外れた道に足を向ける。
何だかんだ言って、風早逃走事件と名付けられた一件は、夏休みに入る頃には収まっていた。
今、どこで何してるんだろうな。
うるさい車の音を聴き流しながら、悠は同じく夏休み休暇を満喫しているだろう二人に思いを馳せた。
そういや、華菜多たちの高校ももう夏休みだったか。
平日なのに、やけに人通りが多い気がするのは、そのせいもあるだろう。
「夏、か」
空を見上げて、悠は言葉をこぼした。
「こんにちは」
緑水堂の暖簾をくぐれば、レジで談笑する人影が目に入った。見たことのある後ろ姿に、わざと大きなため息を吐いてやれば、話し声は火に水をかけたかのように静まった。
緊張がうかがえる二つの目線がほんの少しだけ向けられれば、すぐさまほっと胸をおろす音が聞こえた。
「なんだ、ユウか」
レジに向けていた体が、こちらを向く。
先程の緊張感はどこへやら。華菜多は、髪を払いのけた。
「なんだとはなんだ。ったく、夏休みで暇だからって、バイトしてる愛美さんを巻き込んだらダメだろ?」
わかってるって、と華菜多はむくれた顔で言ったが本当かどうかは怪しい。つい話し込んで周りに迷惑をかけいることに気付かない二人ではないことは、悠もよく知っている。
けど、大人しく悠の言うことを聞く華菜多ではないのだ。……今までの経験上。
あ、そう言えばと声を上げた華菜多は、あっという間に悠のそばまで来るとにこっと笑って言った。
「ちょっと、いい?」
腕を引かれるがままになれば、店の外に連れ出された。
何事かと思えば、次に出た一言に度肝を抜かれた。
「ねえ、叔父さん、ヒコさんに片思い中なの?」
「はあ?」
何を言っているんだ、こいつは。
「寝言は寝て言え」
そう言って軽くデコピンをしてやれば、ヒールつきのサンダルで思いっきり足を踏まれた。
女はいろんな意味で武装している。
「叔父さん、ヒコさんに折り菓子渡したんでしょ?」
あのことか。
どうすれば、そこまで話が飛躍するのか研究すればノーベル賞ものだろと思いながら、あの日お使いに頼まれていたことを素直に話した。
「なんだ。そういうことか」
華菜多は、どこかがっかりした様子である。
「良さんとヒコさんなんて、ひと回りくらい年が違うじゃないか、ありえないだろ」
「ユウは同じクラスの女子に子供だねって言われない?」
何をこいつは言い出すんだ?
表情が出ていたのか、華菜多はやれやれっといった様子で、首を左右に振った。
「恋愛に年齢なんて関係ないんだから」
そのまま力説する華菜多に圧倒させられながら、悠の耳にその話は入ってこなかった。




