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刹那に色を  作者: はるの そらと
梅雨ノ章 奏
27/50

二十六.嘲るように笑う日常(7)


「あいつ、いきなりどうしたんだ?」

 ざわめく教室内で、一人、時雨だけが眉間に皺を寄せると、目を伏せた。

 ぎりっと歯を噛み締める音が小さくしたことに誰も気づかなかった。


   ◇


 もうこの際、視える視えないなんか関係ない。

 あのときの記憶が蘇り、悠の全身は粟立った。

 今は生きるか死ぬかがかかっている。

 細長い紙が風に舞っているようにも見えるが、それは確実に悠に向かってきていた。

 ふざけるな。

 喉のつっかかりを覚えつつ悠は思う。

 ――まだ、死ねない、と。

 漫画や小説の主人公のように活躍し充実した毎日を過ごしているわけでもなく、むしろだらだらと時が流れるままに過ごす平凡で退屈な毎日でも、それなりに愛着があるらしい。

 死にたくないと思うのは、そういうことの裏返しだろう? と自分に無意識に問う。

 上履きのまま外に飛び出した悠は、まっすぐある場所へと走る。

 ――血を隠せばいい。

 自分の息の他に、頭に響く声。

 ……家にいろよ。


   ◇


 枯れ桜の根元からは、先程から爪切りのような軽快な音が、時計の秒針のように一定の間隔で鳴り響いていた。

「……何そんなに苛々してるのよ」

 突然かけられた声に驚くこともなく、視線を上げ、声の主を見た。それでも、パチ、パチと懐中時計の蓋を開けては閉めてを繰り返した。

「俺は苛立っているのか?」

「そんなこと知らないわよ。そもそも、何でうちがあんたの感情のことまで知らなきゃいけないわけ?」

 知るわけないじゃん、と小梅は腕を組みながら言った。

「苛立っているのだろうか……」

「だから、知らないって」

 その間も懐中時計の蓋を開閉する音は止まない。

 苛立つとは、こういう感情だったか。

 枯れ桜の幹に寄りかかりながら、奏は思った。

 たしかに、別の意思のように存在する記憶にもてあそばれている気がするのは事実だ。だが、目が覚めたときからずっと胸の内で訴える言葉に逆らうことに、躊躇していることもまた事実であった。

 ――慣れ合うな、か。

「……まあ、いいわ。あんたがそのままなら、それはそれ。うちにはどうすることもできないんだから」

 沈黙を破った小梅の言葉に奏は眉をひそめた。

「わからないのなら、それでいいわ」

 それでいい、と言っている割には小梅の目は釣り上がっているように見える。

「ちょっと、どこに行くのよ」

 いきなり立ち上がり歩き出した奏に向かって小梅が言う。けど、奏にも答えられなかった。

 例の少年が現れたのだ。しかも、とても慌てている。

「来て。お願い」

 その声に逆らうつもりもない奏は、そのまま少年のあとを追った。


   ◇


 住宅街を抜け、神社のある山のまわりを囲むようにある田んぼや空き地を縫うように走ってるときだ。

 喉に手でも突っ込まれた違和感が襲ってきた。思わずその場に疼くまり激しく咳き込む。

 何でこんなときに――。

 周りにある酸素すべてを吸いとろうと、肺が大きく動くのがわかる。それに合わせて、心臓も強く脈を打つ。

 走れ。

 悠は揺らぐ視界の中で、再び走った。

 山道に入り、坂道がきつくなった。

 もはや、歩いていると言っても過言ではない。それでも悠は前へ進もうと足を動かしていた。


   ◇


「何だぁ? ありゃ?」

 山頂からこちらを見る人影が二つ。金髪にサングラスをし、襟元の空いたワイシャツを着た、若い男とその隣に立つ小柄で灰色のフードを被った子供。

 男の耳や首、手首には金のピアスやネックレス、ブレスレットが存在感を主張していた。

「はぁ。何でそうなるんだか」

 片手で頭をかけば、ジャラジャラと手首のブレスレットが音を奏でた。

 ほんのひと時、サングラスの奥で思案したあと、男は前を見たまま言った。

「火ノ根、何とかしてやれ」

 ふんっと鼻で息を吐いたときには、男の隣に立っていた子供は消えていた。

「こりゃ、面倒なとこにいるなぁ」

 空を見上げながら、男は呟いた。サングラスには、雲ひとつない青空が映る。だが、男の目は空ではなくどこかさらに遠くを眺めているようだった。

「おー、ご苦労さん。あいかわらずお前は仕事がはええな」

「……別に」

 いつの間にか隣に戻ってきた子供に男は労いの言葉をかけた。

「で。そいつのお味はどうだ?」

 ここに来て初めて火ノ根と呼んだ子供に男は目を向けた。

「……不味いね」

 男の言葉を返す緋ノ根の口元には、悠を追っていた、あの白いリボンの残骸が張り付いていた。


   ◇


 もう、無理なのか……。

 悠は後ろを振り返った。だが、本来ならすでに視界に入っているはずの白いものは、そこにはいなかった。

 どこに行った?

 肩で大きく息をしながら、悠はその場に座り込んだ。地面から伝わるひんやりとした冷たさが全身に広がる。今頃になって恐怖が体の底から湧いてきた。震え出す体が自分のものでない気がして、小さく笑った。

「どうした?」

 背後からかけられた声に振り返れば、無表情に近い顔で奏が立っていた。

 見飽きた仏頂面に、わざとらしく大きなため息を吐いてやれば、奏はピクっと眉を動かした。表情を変えるようになったあたり、随分進歩したんだろうけど。

 それにしても、もう少し早く来てほしかった。

「……遅いよ、お前は」

 そう言って見上げた空は、鼠色の雲で覆われていた。



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