二十一.嘲るように笑う日常(2)
誰が生きようが誰が死のうが、季節は淡々と変わっていく。それは、悠たちの住む町も例外ではなかった。
「あーつーいー」
授業合間の休み時間。机を覆うように伸びているのは山崎だ。
確かに暑い。まだ七月に入ったばかりだというのに、気温は三十五度を超えている。扇風機しか完備されていないこの学校では、もはや教室は生き地獄と化していた。
ズズッと加えたストローから音が出たかと思いきや、口から離せば息を吸うような音が出た。
「山崎。そこ、僕の席」
「あ、風早。お帰り」
あまりの暑さに、自販機へ飲み物を買いに行っていたのだが、そのわずかな隙に自分の席から移動したらしい。わざわざこのために体力を使ったのかと思うと、呆れを通り越して尊敬すら覚える。
「野球部のくせに、へばってるんじゃねえよ」
パチンっと軽い音が、山崎の頭から鳴った。
「叩くなよー、川野ぉー」
ベランダに干された布団のような山崎は、顔も上げずに言った。
「暑くてへばるのもわかるけど、部活やってるときより、ずっとマシだろ?」
そう言って、川野もパックから出るストローをくわえた。
「そうだけど、それとこれとは別だろぉー」
放っておけば、そのまま転がりだしそうな山崎を見て、川野はわざとらしくため息をつくと、悠に向かって手招きをした。
男三人、小さく集まったせいでさらに暑苦しく感じる。山崎もそう思ったのか、不機嫌だと視線で訴えてきた。
「ちょと耳貸せ」
有無を言わさず、川野が小声で言えば、山崎はそれに従った。
「聞いたんだけどさ」
そう切り出した川野の表情は、どこかいきいきしていた。
「明日、このクラスに転校生が来るらしい」
「こんな時期に、転校生?」
もうすぐ夏休みだというのに。
「女? 男?」
机の上で伸びてた山崎が、顔だけ上げて眠そうな目を向けて言う。川野は、腕を組むと得意気な顔を向けてきた。
「女だ! それも美人!」
「女! 美人!」
食いつく勢いで山崎は飛び起きると、川野に攻め寄った。
「本当だよな?」
「お前、俺を疑うのか? 今まで俺の目に狂いがあったことがあったか?」
川野がそう言えば、山崎は無言で片手を差し出す。その手を川野が握った途端、息を合わせたかのように、抱き合った。
何やってんだか。
やれやれと肩をすくめれば、山崎と川野は敵を見るような視線を向けてきた。
「お前には、可愛い従兄妹に妹がいるからいいじゃないか。……私立の女子とも知り合いいるし」
「そうだ! そうだ! オレと川野にはそもそも女の子と話す機会もないんだぞ!」
そんなこと言われても、小梅も華菜多も異性としてみていない。そもそも肉親だ。
ただ、ここでどんなに説明しても納得してくれないだろう。川野は一人っ子、山崎は兄がいるだけで、女の肉親は母親しかいないというのだから。
「早く明日にならねえかなー」
楽しみを見出した山崎は、さっきとはうって変わって、目を輝かしている。
山崎らしいと言えば、山崎らしい。
日差しは日に日に鋭さを増すが、セミはまだ目を覚まさない。だが、それも時間の問題だった。
◇
「雨、降りそうだな」
上履きから靴に履き替え、空を仰げば、鉛色の雲が覆っていた。
「風早、傘持ってきてないのか? オレなんか、朝の天気予報で夕方は雨だからって無理矢理傘、持たされたぜ? まあ、確かにこの様子じゃ雨降りそうだけど」
そう言って川野は持っている傘を見せた。
「さっきまで晴れていたのにな」
「まあな。風早、傘ないんだったら貸すけど」
「気持ちだけもらっとくわ。このあとちょっと寄らなきゃいけないところがあるし」
「……彼女のところとか?」
「馬鹿。そんなわけないだろ。第一僕に彼女いないの知ってるくせに」
嫌味か、と返せば川野は笑って答えた。
「風早は、俺たちの知らないうちに彼女とか作ってそうだからな」
それはない、と喉まで出かかった言葉は、降り出した雨のせいでどこかに流れて行ってしまった。
「振ってきたな」
ばさりと大きな鳥が翼を広げたような音が聞こえた。
「オレ、帰るけど、本当に大丈夫か?」
傘を広げた川野が問う。悠は、頷いた。
「このくらいの雨なら平気だって」
「そっか。じゃあ行くけど、気を付けて帰れよ」
「わかった」
手を上げ軽く見送ったあと、姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くすと、持っていた手提げのかばんを頭の上まで持ち上げ飛び出した。
悠は鞄を傘代わりに、小さな水たまりを作り出したグランドを走った。
◇
アーケードのある歩道まで走った悠は、肩を弾ませながら、立ち止まり、呼吸を整えていた。
体力、落ちたかな。
汗のように流れる水滴を拭うと、今すぐ脱ぎ捨てたいほど濡れた靴で、緑水堂を目指した。
「いら――ってユウさん? びしょ濡れじゃないですか。愛美ちゃん、タオル持ってきてもらえる?」
店に入るなり、日子と愛美に手厚くもてなされた悠は、着替えまでさせられ、店の奥でコーヒーの入ったマグカップを持たされていた。
「今日は何かお買いもの?」
そう言って日子は、悠の目の前の席に座った。和菓子屋だけあり、家も和風だ。畳に着物姿の日子はよく似合っていた。
「ええ。良さんからお使いを頼まれまして」
「お使い?」
こくりと頷いた悠は、人差し指で頬をかいた。
「初めてじゃないですか? 良明さんのおつかいで来るなんて。まあ、それはさておき、そういうことでしたら喜んで協力しますよ。何なりとおっしゃってくださいな」
にこっと笑う日子から悠は目線を逸らすと、雨でぬれた鞄の中をあさり始めた。
「それにしても、良明さんが和菓子をお買い求めになる日が来るとは。失礼だと思いますけど、まったく想像してませんでした。急な来客のご予定でも入ったのでしょうかね」
くすくすと無邪気に笑う日子に対し、悠は何か考えるような顔つきのままだった。それに気付いた日子は、笑うのを止め、首を傾げながら片手を頬に添えた。
「どうかしました?」
日子の問いかけに答える代わりに、悠は一枚のメモ用紙を差し出した。真剣な眼差しの悠に軽く気圧されつつ、それを受け取ると恐る恐る中を開いた。
くしゃくしゃになった、白い紙。二つ折りにしてある紙をゆっくり開けば、達筆な字で緑水堂に置いてある商品の名前が書かれていた。
ほっと肩をなでおろす。
「すぐに用意しますから、ユウさんはそこで待っていて――」
「おかしく、ないですか?」
何が、と言いかけて日子は口を閉じた。悠はいつにも増して、真剣な目でこちらをじっと見ていた。
日子は、もう一度渡されたメモを見る。だが、これといっておかしなところはない。
「……そっか。日子さんは知らないんだった」
ぽつりと呟かれた言葉。何気ない一言ではあるが、不安にさせるには十分だった。
「どうしたんです?」
「ヒコさん、良さんは和菓子を一切食べないんです。……甘いの苦手だから」
「まあ、好みは人それぞれですから。そういう方もいらっしゃるでしょう。特別気にすることでもな――」
「それだけじゃないんです」
悠は日子の言葉を遮って言った。
「小梅じゃなくて、僕。普段なら自分で行くのに。それに――」
悠は一度言葉を切ると、小さく息を吸い込んだ。
「その和菓子、買ったらヒコさんに渡すよう言われてるんです」
「私に?」
深く頷くと、大きなため息が吐かれた。
「まったく、良さんは何を考えているんだか」
やれやれと肩を落としながら呟くさまは、保護者のようだ。
「……変なお使いかもしれませんが、お使いには変わりないですから」
そう言って日子は、悠のいる部屋から出た。
そして、悠に負けず劣らず大きなため息を吐いた。いや、ため息というよりかは、呼吸を思い出したかのように、息を吐いた。
兎饅頭、猫もなか、蓮の練り物。
「……なるほど、というところでしょうか。随分変わった方だとは思っていましたが」
ぽつりと呟かれた日子の言葉は、誰の耳にも届かなかった。




