十九.不和
「黒龍の谷」へ行ったあの日から一日がたった。
洞窟内では、ひどく具合が悪かった悠だったが、その日の昼ごろまで寝ていたらか、だいぶ調子が良くなった。
一体、あのときの弱体っぷりは何だったのかと、小梅と華菜多は二人して首を傾げていた。
日曜日ということもあり、のんびりとした空気が家全体を流れていた。
「……お前のこと誤解していた」
そう言って悠は、お茶をすすったあと、遠くを見つめた。自室からつながる縁側で、湯呑みを片手に胡坐をかく姿は、どこからどう見ても還暦後の老人だ。
対する奏は、小波のように揺れる布仕切りの向こうにいた。
「正直、始めは人間じゃないと思ったし。――あ、目がそう見えたんだよ。ガラス玉みたいに何も見てない、気味悪いって思った」
でも、と悠は続ける。
「今回は、本当に助かった。……そのありがとう」
「……別に。礼を言われるようなことは、何もしていない」
その一言を聞き、悠は奏に気付かれないよう、小さく笑った。
返事を返した時点で、奏も変わったなと。そのとき、ドタバタと元気な足跡が廊下から聞こえてきた。
「ゆっちゃん、いつ行くの?」
ふすまを開けて入ってきたのは、野良だった。目を輝かせ返事を待つ様子は、餌を前に待てと言われた犬のようである。
「あんたは、ほんっと、救いようがないバカね!」
その背後から来た小梅は、呆れよりも怒りの方が強いのか、野良の頬をつまむと部屋から連れ出すように引っ張った。
「ユウ君を困らせるんじゃないの」
病み上がりって言葉を知らないの? と、小梅の怒りの声が廊下から響いてきた。思わず苦笑をもらす。野良がここに来るようになってから、小梅は野良のお姉さんのようだと思う。
今日は暑いなと思ったそのときだった。
「もう、平気なの?」
見上げるように振り返れば、上からのぞきこんできた華菜多と目が合った。
いつの間に入って来たのか。一瞬驚いた悠だったが、不安そうな華菜多の顔を見たらどうでもよくなった。
「まあ。さっきまでの不調が嘘みたいに平気。明日は普通通りに行けるはず」
「そっか。それ聞いて安心した」
そう言うと華菜多は悠の隣に腰かけた。
「私ね、クロ、見つけたんだ」
突然切り出された話に、一瞬何のことかわからなかったが、すぐに家出の原因になった黒猫の事だと思い出した。
「見つけたのか」
これまた早く見つかったものだと妙に感心していると、隣にいる華菜多から痛いほどの視線を感じた。
「……なんだよ」
「うん」
黒猫を見つけたと話す割に、華菜多に元気がない。
「あのね、笑わないで聞いてほしいんだけど……」
しばらくの沈黙のあと、華菜多は重い口を開いた。奏がいるけど、いいのかと思ったが、口にはしなかった。
「……昨日、というか今日なのかな。――とにかくユウを見つけたのは、クロだったの」
「はい?」
クロとは、確か黒猫の事だよな? と混乱する自分に問う。
「本当の事なの!」
「……そこまでいうなら」
だが、納得できないと顔に書いてあるのだろう。華菜多は自分でもありえないと思っているのか、顔が真っ赤だった。
「……本当なの。あのとき、玄関にウメちゃんがいたからどうしたのかって思ってのぞいたら、クロがいるし。追いかけたら、あの洞窟に入って行ったから。そしたら、ユウたちがいて――」
言葉を紡ぐ華菜多は、まるで自分自身にも言い聞かせているようだった。悠は、崖下に落ちたことまでは覚えているが、上がるときの記憶は正直、おぼろげだ。奏にずいぶん世話を焼いてもらったことは何となく覚えているが、それも本当に何となく、だ。
「あの洞窟、一本道だったじゃない?」
「まあ、そうだね」
華菜多には「黒龍の谷」の話はしていない。その存在を知っているのは、良さんと小梅、そして俺の三人だけ。……いや、奏もいたか。
とにかく、あの場所はあまり人に知られてはいけない。直接良さんから言われたわけではないが、暗黙の了解ではあった。
「……私、クロを追って洞窟に入ったの。けど、洞窟の奥まで行ったけど、クロの姿はあの後一度も見ていない」
「つまり、黒猫はあの洞窟の中で崖から落ちたかもしれないって思っているってことか」
そう言えば、華菜多は頷いた。
「多分、私が追いかけなければ――」
「それは違うよ」
顔を覆い、体を小さく丸め、声を震わす華菜多の前に、いつからいたのか、野良が立っていた。
縁側のある庭にも砂利が敷き詰められているというのに、この少年はどうやって足音もなくこんな近くまできたのだろう。
悠はぼろぼろのスニーカーを履いている野良を見てそう思った。
「……違くないよ」
華菜多は顔を覆ったまま答えた。
「私が、追いかけなければ。そうすれば……そうすれば、死ぬこともなかったはずなのに」
「ねえ、かっちゃん」
野良は、優しく声をかけた。華菜多の方が野良より年上なのに、見ている悠には、その立ち振る舞いから野良の方が年上のように思えた。
「黒猫、死んでないよ」
「……嘘よ」
「嘘じゃないって。だったら、桜の木の下に行ってごらんよ。――あの猫、この辺りに住み着いてるみたいだし」
黙り込んだ華菜多の頭に、野良はデコピンをした。
「そんなに自分を責めない! ……オレの方が悲しくなるよ」
そう言って小さく笑うと野良はその場に座り込んだ。
「あのとき、追われたからあそこに行ったんじゃなくて、呼ばれたから行ったんだ……ってオレは思うよ」
言葉の途中で野良はいきなり表情を強張らせた。その視線の先を辿れば、こちらを睨む小梅の姿があったのだ。
まったく、仲がいいのか悪いのかわからない二人である。
「だからさ、無事だから大丈夫だって。あ、あとゆっくん」
いきなり話をふられ、身構える。
「なんだ?」
「瀧に行くときは、誘ってね」
瀧に行く、つまり神饌である「黒龍の涙」を供えに行くときは、ぜひ誘ってほしいということらしい。さっき、部屋に入ってきた「いつ行く」というのは、そのことだったのだろう。
「それじゃあね」
慌てた様子で駆け出すのを見て、野良にとって小梅の存在自体が恐怖にならないか心配する悠であった。
◇
午後三時過ぎ。桜の木の下まで行こうと言ったのは、小梅だった。
気丈に振る舞っているのがわかったのか、それとも会話を聞いていたのか、どちらにしても小梅が華菜多を気遣ったのは確かだった。
狂い咲きの桜。もう何年も花を咲かせていない桜の下には、よく人が集まる。
「みんな桜が好きなんだよ」
前を行く小梅が言う。
「あ、ほら見て。華菜ちゃん」
突然上げた声に、華菜多が小梅の指差す方を見るとそこには、一匹の黒猫が毛づくろいしていた。
「……生きてた」
ぽつりと呟かれた言葉のあと、華菜多の目から大粒の涙があふれてきた。
悠からすれば、あの黒猫が本当に華菜多の言う「クロ」なのかはわからない。けど、華菜多がそうだというのなら、そうなんだろう。
野良の黒猫、か。
そのとき、ふと思った。
「野良の黒猫と黒野野良って、なんか似てるな」
そう悠が独り言を言えば、小梅が笑った。
「似てるんじゃなくて、そうなんだって」
きっと野良猫みたいな奴だって、小梅は言いたいのだろう。そう思って悠は、小梅の言葉を気にも留めなかった。
このとき、桜の枝に一輪の花が咲いていることに、三人は気づかなかった。




