十一.目は前にしかついていなかった(五)
歳月人を待たずとはよくいった言葉で、すでに街中にある桜は散り、葉桜になっている。
「いつになったら、お前も花を咲かすんだろうな」
独り言のように呟くと、そっと、他とは違う桜の幹に手を当てた。
一年中裸のままなのに、死んでいない桜の木。普通ならありえない話だ。オカルト好きの川野が、食らいつくだけのことはある。
だけど、何故かな。
誰も咲いたところを見たことがないはずなのに、悠には満開の桜の姿が自然に思い描ける。
夢に出てきたことが、あったのかもしれない。あいにく、悠は夢を見ても忘れる性質の人間だ。しかし、そのせいか、よく既視感を覚える。はたしてそれが本当に夢で見たのか、それともただの思い過ごしかは誰にもわからない。
奏は、多分瀧にいるのだろうな。
枯れ桜の向こう、草木が生い茂るその向こう側を見つめながら思う。
どうして瀧ばかりに行くのか、それを尋ねたくても肝心の本人が答えないのだから、仕方がない。
そういえば、僕もここに来たばかりの頃はよく瀧に行ったんだっけ?
あまり記憶にないことを思いながら、悠は枯れ桜に背を向けた。今日は、日曜日。時計屋の付近を見回るつもりで石階段を下りた。
◇
長い長い下り坂を過ぎれば、閑静な住宅街が現れる。それを抜ければ、人通りの多い大通りに出るのだが、車も人も店も多い通りから、一歩裏に入り込めば、途端に人気も少なくなる。そんな場所にあの時計屋はあった。
きょろきょろしながら道を歩けば、通りすがりに凝視してくる人間がたまにいた。
少し前なら、それが嫌で「綻び」も視えていないフリをしていたが、今はそんなこと言ってられない。
自分のメンツと友人の存在なんて、量りにかけるまでもない。
――人には視えないものが視える。
悩みの種だった重石に、今はかまっている暇はないい。
特に何も視えずに時計屋の前まで来た悠は、そのまま日子の店まで向かった。
「緑水堂」と書かれた木材の看板を一瞥すると、引き戸に手をかけた。
ガラガラと軽快な音を奏で、のれんをくぐれば、カウンターには日子ではなく愛美がいた。
「いらっしゃい」
笑顔で迎えられ、悠は小さく会釈しながら中に入って行った。
「さっきまで華菜多いたんだけど、すれ違いになっちゃったね」
「いや、あいつに用があったわけじゃないから別にいいんだけど」
「そうなの?」
悠は片手で頭をかいた。
愛美は華菜多の友人だ。周囲を和ませるような、おっとりとした雰囲気を纏う彼女は、和菓子を扱うこの店によく馴染んでいる。普段男勝りな性格の華菜多と接することが多いせいか、愛美のような異性はどことなく苦手だ。
「近くまで来たから、たまたま寄っただけ。今はヒコさんいないの?」
そう聞けば、愛美はこくんと頷いた。
「そっか。じゃあ、また来るよ」
そう言って背を向けようとした瞬間だった。
「まあまあ。そう急がなくても」
突然両肩に温もりを感じ、振り返れば、ほほ笑む日子がそこにいた。
「ユウさん、いらっしゃい」
今日は、浅黄色の着物にレース状の羽織身に着けていた。
「今日はどうしたんです?」
「いや、たまたま近くに来たので。ヒコさん、どこか出かけていたんですか?」
そう言うと、日子は口元を隠して笑った。
「ちょっと、ね。――最近野良猫が寄りつくようになったから、少しだけお世話しててね。華菜ちゃんがよく見てくれるんだけど、この町に来たばかりなのか、ふらふら出歩くから、心配らしくて」
野良猫、か。そういや神社の境内で見かけたな。
「華菜ちゃん、野良のままじゃあいずれ保健所に連れてかれるからって、飼うつもりでいるらしいんだけど――」
そう言いながら、日子は顔を曇らせた。
言いたいことはわかる。
「それは無理というか、無謀ですね」
「だよねぇ」
華菜多の父、つまり良明の兄、智明は猫アレルギーなのだ。そのせいか、大の猫嫌いである。
あれを説得するくらいなら、諦めた方が楽だ。
そもそも聞く耳を持つかどうか……。
「あら、噂をすれば」
日子の視線の先を追えば、ガラス越しに黒猫が座ってこちらを見ていた。心なしか、僕の方を見ている気がする。
『なんだよ』
音にはしないで、口の動きだけで言ってやれば、おかしなことに、猫も欠伸で返してきた。
――変なやつ。
猫は店の中をじっと見たあと、背を向け去っていった。
結局、悠の探す「綻び」は見つからず、一旦家に戻ることにした。いつの間にか日は沈み、緑から黒に変化した木々が悠を囲む。
早くしないと――。もう、時間が……。
一刻を争う事態に、休む余地はない。
制服のまま探し回って、そのまま学校――はダメだ。警察に補導される可能性がある。
山の頂上から風が吹く。木々が無数の木の葉を揺らし、音を奏でる。少しだけ冷たいその風は、頭を冷やすには十分だった。
タイムリミットまで、あと四十二時間――。




