十二.目は前にしかついていなかった(六)
寝る間も惜しんで、町中を隈なく探し回っても見つからない。焦る気持ちから、奏に掴みかかったりもしたが、何も知らないの一点張りだった。
早くしないと、早く――。
目をぎらつかせ、獲物を探す餓狼のような雰囲気を醸し出す悠。周りの気遣いさえ、今の悠には鬱陶しい。
「風早、最近隈ひどくね? ちゃんと寝ないとぶっ倒れるぞ?」
そう声をかけてくれた山崎の顔が、悠にはもう見えなかった。
ただ悪戯に時が流れていく。それを止める術を、悠は知らない。
ふらふらと、体を左右に大きく揺らしながら、苔むした石階段を上りきると、同時にその場へ崩れ落ちた。ひんやりと冷たい玉砂利。それに熱を吸わせても、目頭の熱は一向に退く気配がない。奥歯を噛み締めるのを少しでも緩めれば、あっという間に目の前はかすんでしまうだろう。
「僕は、なんて……」
――無力なんだろう。
砂を掴むように、手のひらを地面に食い込ませれば、掴むのは砂利ばかり。ごろごろとした石を力いっぱい握れば、痛みが走る。
――もう、どうすることもできないのかよ……。
血をこぼしたような赤い空の下、一滴のしずくが地を濡らした。
……山崎。
嗚咽を必死にかみ殺す。
まだ、時間はあるのだ。ここで泣いている暇があるなら、足が潰れるまで駆けまわる方がいい。
袖で両目をこすったそのあとだった。
視線の先に、一匹の黒猫がいた。
なぜかはわからないが、日子のところで見た黒猫だとすぐにわかった。
黒猫は一声鳴くと、まるで「ついてこい」と言わんばかりの視線を悠に投げかけた。
悠は、藁にも縋る思いでその小さな影を追った。
一人と一匹は、深い森の中へと足を踏み入れる。
カサカサ、と葉を揺らし、土を蹴りあげて前へ進む。駆け足でなければ、黒猫はすぐに見失ってしまうだろう。それに人とは違い、ずいぶん背の低い生き物だ。目を話した途端、無造作に葉を広げる草木によって姿を隠してしまう。
それだけは、何としても避けなければならない。
悠はただ、黒猫だけを見て足を進めた。そのせいで、幾度となく頬や手の甲を枝に引っ掻かれたが、あまり気にならなかった。
無我夢中で追いかければ、いきなり広場のような場所に出た。円を書くように木々が並び、まるでその場所を避けるかのように、草木が少ない。一面芝生でも敷き詰められたかのような緑の絨毯は、よく見れば苔だ。
――なんだ、ここ。
鎮守の杜は、迷いの森。あの世とこの世を繋いでいる――そんなことを言ったのは、確か良さんだったか。
森の中なのに、空がよく見え、光が燦々と降り注ぐ。
黄昏時の今、緑は赤に変色して見えた。
「こっち」
現実なのか、夢なのか。ぼうっと立ち呆けていれば、風のささやくような声が聞こえた。つられて声のした方を振り返れば、いつからいたのか、見たことのない少年が一人、こちらを見つめながら立っていた。
小梅と同じ年頃の少年だ。突拍子もないことが続けて起きたせいか、悠はどうしてこんなところに見知らぬ少年がいるのか不思議に思わなかった。
「こっち」
小さな口の動きで、少年は言った。
「ついてきて」
そう言って背を向けた少年を、しばらく呆けたように見つめていると、後ろから風が強く吹いた。髪が乱れ、木の葉が舞い、砂が立ち上る。思わず目を細めた。風が弱くなった頃、気づけば少年の姿は随分小さくなっていて、慌ててそのあとを追いかけた。
右に左にと、縫うように木々の間を通って行けば、立ち止まった少年の姿が視界に入った。その隣に立てば、少年はまっすぐ前を指差し何かを一心に見つめていた。
少年の視線と指の先、そこにあったのは、白い繭――いや、「綻び」だった。
こんなところに……。
静まり返ったそのとき。鈴虫のようで違う、それよりも鈴の方が近い音が聞こえた。
なんだ、この音。
チリン、チリンとかすかに聞こえるその音は、四方八方から聞こえる。同時に通り雨のような音も聞こえた。こちらは瀧の音だ。
「この音、好き?」
唐突な質問だったが、悠は答えた。
「まあ、好きか嫌いかで言ったら、好きかな」
「そう」
不思議な子だなと思う。静かな口調とその見た目がちぐはぐだ。
「じゃあこの世界は?」
好きか嫌いかという質問だろうか。
「好きだよ」
断言できた。嫌なこともあるが、嫌いじゃない。
少年は言う。
「始まりがあれば終わりもある――そのことを忘れないで」
随分大人びた子だなと視線を少年に向けた瞬間、そこには誰もいなかった。
思わず固まる。しかし、そんな時間はないとさっきから鳴る正体不明な音色が僕に訴える。
きっと奏が言っていた「綻び」はあれに違いない。見た目からして明らかに異様なのだ。
それなりに「綻び」を視てきたが、ここまで複雑な形をしたものは初めて見た。
一見「綻び」はヒビのように視える。その割れ目の奥に何があるのかは知らないし、知りたくもない。ただ、リボン、いや糸くずのような細長く得体のしれないものがいることだけはわかっている。そんな感じでただ単にヒビのような形をしているはずの「綻び」が、ヒビというより糸を羽織る繭のようになっているのは初めて見た。
なんか、修復しようとしているみたいだ。まあ、とにもかくにも――。
「あれをどうにかすればいいのか」
そうすれば、山崎も消えずに済む。
消えろ、と念じたときだった。
――忘れないで。
少年の声が脳裏をよぎる。
「綻び」が消えたのと同時に、悠もその場に崩れ落ちた。
◇
目に映るのは、白。自分の吐く息も、白。足跡も白。すべてが白。それが面白くて、思わず笑った。細めた目。そこから再び一面の白に目を向ければ、純白の中にある二点の黒を見た。
一つは細く長い二つの影を空に向かって伸ばし、もう一つは長くうねった一つの影を地に這わせている。見たことのある動物だ。
手を伸ばし、足を一歩踏み出した――そのときだった。
鈍いような、高いような。本能が危険を感じた、そんな音が足元で鳴ったその瞬間。白は黒になった。
――苦しい。
口から洩れるのは、無数の黒い――泡。
息苦しさを覚えた悠は、眉間に皺を寄せると、重たい瞼をほんの少し開けた。
「……猫とうさぎ?」
かすむ目が映したのは、黒い猫と白いうさぎだった。枕元にあったそれは、人形かと思いきや、みゃあと小さく鳴くと、頬をなめてきた。猫の方は本物だ。
随分人懐っこい猫だな。
頭を撫でてやれば、喉を鳴らしながら手にすり寄ってきた。焦点が合うようになって、ようやくここが自分の部屋だとわかった。
あれ、なんでここで寝てるんだ?
何かしていた気がするが、思い出せない。
そんなことを思っていれば、廊下を走り抜ける音と共に部屋のふすまが開いた。
「ユウ君!」
眉をへの字に曲げ、顔をのぞかせたのは小梅だった。
「小梅、俺どうしてここに……」
「ユウ君、ちょっと森の中に入ったところで倒れてたんだよ。すぐに見つかったからよかったけど。……すごく心配したんだから」
掠れた声で言う小梅に目を向けると、袖で両目を交互にこすっていた。鼻を啜りながら泣く小梅の頭をポンとなでる。
「……ごめんな、小梅」
そう言えば、ふるふると左右に頭を振った。
とにかく、もう奏の言っていた「綻び」は消えた。根拠はないが、不思議なことにそれは言い切れる。どう消したのか、どこにあったのかはよく覚えていないが。……まったく。疲労で倒れるなんて、ひ弱だな。
くすくすと一人笑えば、ふと疑問に思う。
「……小梅、ここに猫、いなかったか?」
「猫? 見てないけど、どうして?」
「いや、見てないんならいいんだ」
さっきまで撫でていた黒猫。あれは、どこに行ったのだろう? まだ、毛並の感覚が手に残る。
そういえばうさぎのぬいぐるみもない。
――あれは、夢だったのだろうか。
「ユウ君見つけて運んでくれたの、奏なんだから、あとでちゃんとお礼言うんだよ」
何故か機嫌を損ねた小梅の一言に、思わず目を見張る。
「奏が?」
小梅は、口をへの字に曲げたまま小さく頷いた。
「……クールそうなくせに、無駄に熱いんだから」
「今、何か言ったか?」
「別に、何でも」
にこっと笑うと、悠の隣に横たわった。甘えるように顔を寄せてくる。
「最近どうしたんだよ、お前」
苦笑をもらしながら、絹のように流れる黒髪を整えてやると、小梅はさらに寄ってきた。
「ガキみたいだな」
「……ガキだもん」
答えた小梅の声色は、弱々しかった。
心配、してくれてたんだ。
「ありがとな、小梅」
「……ユウ君は、ユウ君のままでいいの」
そう言って、小梅は掴んでいた悠の袖を強く握った。
◇
咲くことを放棄し、人や鳥、虫にまで必要とされなくなった桜の木。ご神木として崇められてなければ、とうの昔に切り倒され、薪にでもなっていただろう。
しめ縄を巻き、爽やかな風が吹いても虚しく立つ枯れ桜に背を預け座る人物が一人。力なく下がる手の中にある懐中時計を見て、奏は目を閉じた。
時は過ぎる。権力者だろうが、金持ちだろうが、そんなの関係ない。――誰がどうあがこうとも時間は平等であり、無情だ。
それは、時計が止まっていても同じ。
奏は目を開くと、空を仰いだ。見上げた視線の先には、例の白い糸。それも、数十ほど。放っておけば、必ず襲い掛かってくるだろう。
奏は鋭く息を吐いた。
「……俺は。……俺が正しいと思うことをしよう」
そう言って立ち上がると、それら空を睨んだ。
風が、木の葉とささやきと共に、絵馬も奏でる。
カラ、カラ、カラ――カラン、と。
◇
玄関の固い戸を閉めると、悠は砂利を踏み鳴らしながら、外の眩しさに目を細めた。
一応、休むことを伝えるため学校に連絡を入れたそのとき、山崎の名をさりげなくあげたが、どうやら普通に登校しているらしい。きっと電話の向こうの教員は、首を傾げたに違いない。だけど、それを聞いた瞬間、へたり込みそうになる体を必死で支えるほど、心底安心したのも事実だ。
昼時になり、体調も回復した悠は、簡単な昼飯を作ると奏を探しに外に出た。
もう、夏も近いな。
室内とは全く違う日差しに、そう思う。
日差しだけではない。木々の葉の色も随分濃くなった。吹く風も暖かい。
カラン、カラン――。
風が運んできたのは、聞き慣れた音。絵馬が奏でる調べ。
カラン、カラカラ――。
吸い寄せられるように絵馬殿へ向かえば、枯れ桜から伸びる二本の足が見えた。
誰だ?
恐る恐る近づけば、桜に寄りかかる奏がそこにいた。
ご神木に寄りかかって昼寝とは――。
呆れかえった悠だったが、奏の様子を見てその態度を一変させた。
「おい、どうしたんだよ?」
荒い呼吸を繰り返すその姿は、尋常ではない。
「立てるか?」
手を伸ばせば、一瞥するだけで頼ろうとしなかった。
「おい!」
声を荒げても、奏は悠の手を見向きもしない。
「……いい加減にしろよ」
無理矢理手を貸してやろうかと思ったそのとき、奏は空を仰いだ。一年中葉を付けない枯れ桜からだとよく空が見える。
奏の視線の後を追うように見上げれば、目に映るのはどこまでも広がる青一色。
今日は、いい天気だな。
そんなことを思っていると、足元から鼻で笑った音がした。
「……何がおかしいんだよ」
「別に」
先程までと比べ、ずいぶん落ち着いた様子の奏がそこにいた。その回復力に一瞬だけ驚き、何があったのか首を傾げる。が、何はともあれ、手を貸す必要もなさそうだ。
悠はぐっと伸びをすると、奏を見下ろして言った。
「昼飯――」
「あ、ユウ!」
言葉を遮るようにして現れたのは、華菜多だった。いつもと同じようにポニーテールを左右に揺らすが、制服ではなく、私服姿であった。
「奏さん、こんにちは」
礼儀正しく挨拶をするあたりで、育ちの良さがにじみ出る。
「何しに来たんだよ」
今日は平日。健全な高校生なら勉学にいそしんでいるはずだ。まさか、華菜多に限って学校をさぼるなんてことはない、と思うのだが……。
「ユウが倒れたって叔父さんから聞いて。ちょうど、創立記念日で休みだったから来たんだけど、心配なさそうね」
「ご覧のとおり、もう平気だし、そもそもそんなに大袈裟なことじゃなかったんだけど」
「んー、それは私には何とも言えないけど、ただお見舞いに来たわけじゃないのよ」
華菜多には、他に話があるようだ。
「ヒコさんのところにいた黒い猫、覚えてる?」
数年前の話じゃあるまいし、覚えているに決まっている。小さく頷けば、華菜多はため息を吐いた。
「お父さん説得して、飼ってもいいって話になったんだけど――」
「伯父さん、説得できたのか!」
大の猫嫌いの智明を抑え込むとは。娘の存在力は強いな。
感心していると、脛を蹴られた。
「ちゃんと最後まで聞いて」
どうやら相当煮詰まっているらしい。何があったのか考えてみて何となく想像がついた。
「猫、いなくなっちゃったの。多分、どこかで元気に暮らしていると思おうとしたんだけど、やっぱり、ね」
予想は的中。猫は自由を好む。何となく察したのかもしれない。
「だけどね、ここに来る途中で仲良くなった子がいて――あれ、いない?」
引き返す華菜多の背中を眺めながら、予想外とはこんなことを言うのかと、小さくため息を吐いた。猫の次は人を拾ったのか? ――なんか良さんにも同じことを思ったような気が。
「大丈夫、大丈夫。見た目より全然怖くないから」
そう言って華菜多が連れてきたのは、黒髪に黒目、服装まで黒っぽい色で統一された十くらいの少年だった。
「えっと、あの」
視線を下に上にと泳がせたあと、華菜多の裏に隠れてしまった。シャイなのか?
「初めまして。俺のことはユウって呼んでいいから。……君の名前は?」
「え、あ、えっと、僕は――」
「野良」
声のした方を向けば、小梅が立っていた。
「黒野野良だよ」
「ウメちゃん、この子と知り合いなの?」
「まあ、そんな感じ」
知り合いという割には、野良に対する態度が冷たいのは気のせいか。
「なんだ、野良くんウメちゃんのお友達だったんだ」
「友達じゃない。ただ、最近この町に引っ越してきたばかりで、たまたま道案内みたいなことをしただけ。だから他人も同然だから」
「小梅、なんか野良にきつくないか?」
思わず言葉にしてしまった。小梅がここまで人を嫌うのも珍しい。
「別に……」
黒野野良、か。なんだかんだ言って、小梅が同じ年くらいの友達を家に連れてきたことはない。たまたま居合わせてしまい、照れ隠しで冷たい態度をとっているのかもしれな。そう考えたら、おかしくて笑ってしまった。
野良は華菜多の後ろに隠れたまま、小梅から距離を取るようにしつつも、奏の方をじっと見ていた。
その視線は、期待の羨望でもあった。




