―第0️⃣0️⃣1️⃣話― Googleマップの車に遭遇!その時、私が後悔した理由
日課の散歩をしていた、なんてことのない昼下がりのこと。
目の前を、あの「特殊なカメラ」を屋根に載せた車が、すうっと通り過ぎていきました。
そう。Googleマップの、ストリートビュー撮影車です。
見つけた瞬間、私はいつも、こう思ってしまうのです。
「……しまった!!」
事前にルートが知らされるわけでもなし、身構える暇などありはしない。分かってはいるのに、なぜか「何か、できたんじゃないか」という、言葉にならない後悔が、じわりと込み上げてくる。
……いや。冷静に、考えてみましょう。
仮に、あの車が来ると事前に知っていたとして。私は一体、何をするつもりだったのか。慌てて髪を撫でつける? へこむはずもない腹に力を入れて、姿勢を正す? それとも、通りかかったベンチにさりげなく腰かけ、文豪よろしく、文庫本のページでもめくってみせる?
——どれを思い浮かべてみても。
そこに写るのは結局、顔にぼかしの入った、ただの中年男性なのでした。
■ 「準備不足感」の、正体
私はもともと、目立ちたがりではありません。
むしろ、人前は苦手なほうです。仕方なく人前で話す機会があれば、終わったあとに決まって「ああ言えばよかった」「なぜあんな言い方を」と、一人反省会を延々と開いてしまう。そういう、後ろ向きな質なのです。
それなのに。ストリートビューの車に対してだけは、あの妙な「準備不足感」が、胸をよぎる。
なぜだろう、と考えてみて、ひとつ思い当たりました。
たぶん私は、あのレンズの向こうに、「半永久的な記録」の気配を感じ取っているのです。
いつか、どこかの誰かが——あるいは、ずっと年老いた、未来の私自身が——この見慣れた道を検索したとき。そこには、あの日の「私らしき人影」が、写り込んでいる。顔にぼかしが入っていても、構わない。「あの日、あの道を、確かに私が歩いていた」という事実だけは、消えずに、残り続ける。
熊本の、なんの変哲もない生活道路。私が毎日、猫の砂を買いに行き、季節の移ろいをぼんやり眺めながら歩く、あの道。そこに刻まれた、名もない通行人の私。
「どうせ残るのなら、もう少し、自分らしい姿で写りたかった」
そんな、ささやかな見栄というか——自分という存在への、ほのかな愛着のようなものが。心の奥に、ひっそりと潜んでいたことに、気づかされたのです。
■ だから、私は物語を書くのかもしれない
そう考えると、不思議なものです。
私がこうして、夜な夜な小説を書き続けているのも。根っこは、案外、同じところにあるのかもしれません。
「ここに、自分が生きた証を、刻んでおきたい」
誰かに、もてはやされたいわけではありません。ただ、自分という人間が、この時代の、この熊本の片隅に、確かに生きていた。その手触りを、何かの形にして、遺しておきたい。
そんな、少し切実な願いが。今日も私に、キーボードを叩かせているのでしょう。
思いがけない散歩の道すがら、自分の本音の、いちばん深いところに触れてしまった一日でした。
さて。おかげで、新しいネタも見つかったことですし。今日もまた、物語の続きを書くとしましょうか。
——幸い、私の物語の中に生きる「私」には。
ぼかしなど、入りませんから。
そこには、髪型を気にする暇もなかった、あの日の情けない中年男が。少しだけ格好をつけて、言葉の中に、生き続けてくれるはずなのです。




