57:ウィリー・ウィリアムスを越える
「さあ、タカシ!! 今日も行くぞ!!!」
ケンジの掛け声とともに、俺は無言で立ち上がる。
俺の目の前には、すでに見慣れた存在――牛。
「フゴォォォォ……」
牛が低く唸りながら前足を踏み鳴らす。
かつては、この時点で俺の心は絶望に満ちていた。
だが、今は違う。
俺は、ゆっくりと息を吐きながら足を開く。
肩幅よりやや広めのスタンス。
「おお……タカシの構えが洗練されてきたな」
ケンジが満足そうに頷く。
俺の修行は地獄だった。
毎朝、牛と戦う日々。
最初は軽く触れた瞬間に吹っ飛ばされ、
翌日には角を掴むことができるようになり、
さらに数日後には、牛の動きを読んで間合いを取ることができるようになった。
そして今――
俺は完全に、牛と“対話”できる域に達していた。
(来る……!)
牛が地面を蹴り、突進してくる。
俺はその動きを見極め、一瞬で判断する。
右か? いや、フェイントをかけてくる……左だ!
「ふっ!!!」
牛の突進を最小限の動きで避けながら、
そのまま角を掴む。
「うおおおおおおおお!!!!!!」
一気に腰を落とし、力を込める。
ズドォォォォォォン!!!!!!
牛が宙を舞い、地面に叩きつけられた。
草原が揺れ、土煙が舞い上がる。
……静寂。
俺は、ゆっくりと息を整えながら立ち上がった。
そして、牛を見下ろしながら、静かに言った。
「もう……恐れる必要はない……」
俺は牛を投げられるようになった。これは、単なる腕力の問題ではない。
柔道の極意――“相手の力を利用する”それを、完全に会得したのだ。
「……ククク……」
「?」
ケンジが、ニヤリと笑った。
「タカシ、お前はついに“牛投げの境地”に至った……」
「……つまり?」
「次の修行に進む時が来たということだ」
「……次?」
ズゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……!!!!!!
地響きが鳴り響く。そして、木々が揺れる。
俺の目の前にそびえ立つのは――
この地域で恐れられている、人喰い熊。
「“Чёрный демон(黒き悪魔)”……」
ケンジが低く呟く。
「こいつは、ただの熊じゃない。戦士の魂を持つ熊だ」
「戦士だとぉおおおおおお!!!!!」
俺はとりあえず絶叫した。
ケンジは腕を組み、神妙な顔つきで語り始めた。
「いいか、タカシ。お前は今、牛を投げられるようになった。それは素晴らしいことだ。だが、所詮は牛。牛は人間に飼われる生き物。貴族のサロンにいる文学青年を投げたようなものに過ぎん」
「いや、普通の人間すら投げないけどな!?」
「だが、熊は違う。熊は大自然の猛者。人間の理屈など通じない、戦士そのものだ」
俺は絶望しながら、震える指で熊を指差した。
「なあケンジ、あれ、戦士っていうレベルじゃねえぞ!? どう見ても“ラスボス”だぞ!? 」
目の前の熊――いや、魔獣と呼ぶべき存在は、圧倒的な質量を誇っていた。
体長 3メートル以上。
牙は剣のように鋭く、腕を一振りすれば木をへし折る。
背中には無数の戦いの傷跡。まるで歴戦の猛将のような風格を持つ。
ケンジはニヤリと笑った。
「いいか、お前が勝てないはずがないんだ」
「いやいやいやいやいや!!!! どこをどう見たら勝てると思うんだ!?!?!?!?」
「ウィリー・ウィリアムスを知っているか?」
「!!!!」
「そう、極真空手の伝説の男の一人だ」
ケンジの目が熱く燃え上がる。
俺はその時点で嫌な予感しかしなかった。
「1976年、ウィリー・ウィリアムスは、本当に熊と戦った」
「しかも、素手で、だ!!!!」
「彼は熊を前にして、一歩も引かなかった」
「熊が立ち上がり、威嚇の咆哮を上げた」
「ウィリーは冷静だった。相手の動きを見切り、隙をついて強烈なローキックを叩き込んだ」
「え?ローキックって、熊に効くの!?!?」
「熊は一瞬怯んだ」
「怯んだのかよ!?!?」
「だが、熊はやはり強かった。ウィリーはさらに攻める。パンチ、ロー、膝蹴り。だが熊の耐久力は異常だった!!」
「そりゃそうだろ!!!!!」
「最終的に、ウィリーは戦いを終えた」
「終わった!?!?!?!?!? どういうことだ!!!???」
「まあ、興行目的だったからな。途中で試合終了になった」
「勝ってねえじゃねえかああああああ!!!!!!!」
ケンジはニヤリと笑う。
「だが、お前なら勝てる」
「……なんか、そんな気がしてきた!!!!」
俺は、息を整えた。
確かに、俺は以前の俺じゃない。
牛と戦い、サンボ、ボクシング、少林寺拳法を学び、ロシアの山中で何度も死にかけた。
俺は、この熊に勝たねばならない。
「来るぞ!!」
ケンジの声と同時に、熊が咆哮した。
「ГРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРРР!!!!!!!!」
爆発するような衝撃波。熊の巨体が俺めがけて突っ込んでくる。
「うおおおおおお!!!!!!」
俺は、一瞬の隙をつき――
熊の腕を掴んだ。
「ぐおおおおお!!!!!」
しかし、重量が違いすぎる。
俺はそのまま地面に叩きつけられ、身体が跳ね上がる。
「タカシ!!!! 立て!!!!」
「ぐっ……!!!」
俺は歯を食いしばり、膝をついたまま顔を上げた。
熊が、巨体を揺らしながら再び突進してくる。
――やるしかない。
俺は、拳を握りしめた。
「ケンジ!!!」
「なんだ!!!」
「この熊……投げられるか!?」
ケンジはしばし沈黙し――
ニヤリと笑った。
「やってみろ!!!」
俺は、全力で熊の懐へ飛び込んだ。
そして――
「うおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!」
全身全霊の力を込めて、熊の巨体を掴んだ。
「大外刈り!!!!!!!!!!!!」
ガッ!!!!!!!
俺の足が、熊の脚を刈り取る。
「……ぬおおおおおお!!!!!!!」
熊の巨体が――
宙を舞った。
「なっ……!!!!」
ケンジが驚愕の声を上げる。
「やったか!?」
俺の心臓が高鳴る。
しかし――
ドゴオオオオオオオオ!!!!!!!!!!
熊が、地面に激突する寸前、片腕を地につけ――
そのまま跳ね起きた。
「……っ!!」
熊の目が、俺を睨みつけている。
「タカシ……」
ケンジの声が震えていた。
「お前……今、 この熊と“対等”になったぞ……!!!!」
「…………」
俺は、ゆっくりと立ち上がる。
ここからが、本当の戦いだ。
「来い!!!!!!!!」
俺は、熊に向かって拳を握りしめた。
そして――
“Чёрный демон”との死闘は、夜明けまで続いた。




