13:そうだ洗礼を受けよう
というわけで、夜の列車でペテルブルクへ向かうことが決まっている。
しかし、その前にモスクワを見ておかねばならぬ。
まずは――
赤の広場。
モスクワの象徴的な場所だ。夕暮れの空の下、広大な石畳を歩く。
目前には、あのカラフルな玉ねぎ型の屋根――
聖ワシリイ大聖堂。
赤、青、緑、黄金の装飾が、まるで異世界の建築のように輝いている。
俺は、しばらくその姿に見惚れていた。
……だが、ふと気づく。
(そうだ……)
(俺は、ナスターシャ・フィリポヴナを救うと言っているが……)
(俺は正教会にすら入信していない)
俺は衝撃を受けた。
正教会――ナスターシャ・フィリポヴナが生きた時代、
ロシアの人々が信じ、そして彼女もまた影響を受けていた宗教。
ムイシュキン公爵が理想としたキリスト教的愛。
ナスターシャが苦しみながらも背負った罪の意識。
ロゴージンが信じた歪んだ運命。
全ての根源は、ここにあるではないか。
俺は拳を握った。
(俺は、ナスターシャを救おうとしている)
(ならば、俺自身もロシア正教の信仰を持たねばならない。)
(そうでなければ、ムイシュキンと同じではないか!)
俺は、大聖堂の前で立ち尽くし、決意した。
――俺は、正教会に入信する。
というわけで、俺は聖堂の中へと足を踏み入れた。
観光客が写真を撮り、ガイドの説明に耳を傾けている。
フラッシュの光が飛び交い、スマホを掲げる人々の声が響く。
だが、俺にとってここは観光地ではない。
俺は観光客を無視し、神父を探した。
そして――
聖堂の奥に、ひときわ風格のある男が立っているのを見つけた。
白く長い髭。威厳に満ちた表情。
黒い祭服の上に、金色の刺繍が入った華麗なマントを纏い、
大きな十字架を胸に掛けている。
この人ならば間違いない。
俺は一直線にその神父へと向かった。
「Извините!」(すみません!)
神父がゆっくりと俺の方へ視線を向ける。
俺は、その荘厳な眼差しを見つめながら、力強く宣言した。
「Я хочу креститься прямо сейчас!」
(俺は今すぐ洗礼を受けたい!)
――静寂。
観光客たちが一瞬動きを止め、ざわめく。
近くにいたロシア人女性が、驚いたように俺を見た。
神父は、まばたきもせず俺を見つめ続けた。
そして、ゆっくりと低い声で言った。
「……Что?」(……何?)
俺は、さらに一歩踏み出し、確信を込めて言った。
「Я должен спасти Настасью Филипповну. Поэтому я хочу принять православную веру немедленно!」(俺はナスターシャ・フィリポヴナを救わねばならぬ。だから、俺は今すぐ正教会の信仰を受け入れたい!)
神父の表情が変わる。
観光客たちのざわめきが大きくなる。
俺の声は、聖堂の荘厳な空気を震わせた。