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12:お前は常に見張られている

【第十一章】シェレメーチエヴォ別室戦争――ロシア入国審査、最後の門


モスクワ・シェレメーチエヴォ空港。


俺は、無言のまま警備員に連行され、別室へと案内された。


薄暗い部屋。

窓はない。机が一つ、椅子が三脚。

そして俺を取り囲むのは、三人のいかついロシア人係官。


一人はスキンヘッド。

一人は髭面。

もう一人は無表情で、軍人のような鋭い目つき。


スキンヘッドが腕を組みながら、ロシア語で低く言った。


「Ну что, давай начнём.」

(さて、始めようか)


俺は深く息を吸う。


(……ようやく、“例文以外”を話す時が来た)


この三年間、俺はロシア語の暗記に全力を注いできた。

筆記体をマスターし、NHK「まいにちロシア語」を聴き続けた。

今こそ、その成果を見せる時――!


髭面の係官が尋ねる。


「Итак, какая у вас цель поездки?」

(それで、お前の渡航目的は?)


俺は拳を握りしめ、力強く言った。


「Я должен спасти Настасью Филипповну!」

(俺はナスターシャ・フィリポヴナを救わねばならぬ!)


三人が顔を見合わせた。


スキンヘッドが目を細める。


「Кто эта Настасья Филипповна?」

(そのナスターシャ・フィリポヴナとは誰だ?)


俺は堂々と答える。


「Героиня романа ‘Идиот’ Фёдора Достоевского!」

(ドストエフスキーの『白痴』のヒロインだ!)


――沈黙。


髭面が鼻を鳴らす。


「И где она живёт?」

(そいつはどこに住んでいる?)


「В Петербурге!」

(ペテルブルクに!)


スキンヘッドが眉をひそめる。


「Она гражданка России?」

(彼女はロシアの市民か?)


「Да!」

(そうだ!)


――しまった。言葉の勢いで言ってしまった。


スキンヘッドが、無言でどこかに連絡を取り始める。

髭面が俺をじっと睨む。

軍人のような係官が、初めて口を開いた。


「Подождите здесь.」

(ここで待て)


そして、扉が開いた。


入ってきたのは――

50代くらいの男。鋭い目つき、上質なスーツ。

明らかに、先ほどの係官たちよりも格が違う。


男は椅子に腰を下ろし、俺を見据えた。


「Ну, хорошо. Теперь давай серьёзно поговорим.」

(さて、本気で話をしようか)


空気が変わる。


スキンヘッドが鋭く問いかけた。


「Как ты относишься к специальной военной операции?」

(“特別軍事作戦”をどう思っている?)


来た。


この質問の意味は、分かっている。

俺は今、“西側の潜在的スパイ”としてチェックされているのだ。


だが、俺には恐れはない。


俺が口を開こうとしたその瞬間、スーツの男が畳みかけるように問う。


「Ты шпион?」

(お前はスパイか?)


「Нет!」

(違う!)


「На кого ты работаешь?」

(どこの組織の指示だ?)


「Я не шпион!」

(俺はスパイじゃない!)


男が机を叩いた。


「Кто твой куратор?」

(お前の連絡員は誰だ?)


「Нет у меня куратора!」

(いない!)


「Настасья Филипповна – это твой связной?」

(ナスターシャ・フィリポヴナはお前の“連絡員”か?)


「Да!」

(そうだ!)


――しまった、また勢いで言ってしまった!!


スーツの男の目がギラリと光る。


「Ты что, издеваешься?!」

(ふざけているのか!?)


だが、俺はもう退かない。


テーブルに両手を突き、全力で叫んだ。


「Я приехал в Россию, чтобы спасти Настасью Филипповну!」

(俺はナスターシャ・フィリポヴナを救うためにロシアに来たんだ!)


スキンヘッドが額を押さえる。

髭面が深くため息をつく。


スーツの男はしばらく睨みつけていたが――

やがて何かを書類に記入し、ゆっくりと立ち上がった。


「……Ждите здесь.」

(ここで待て)


扉が閉まる。


俺は椅子に座り直し、深く息を吐いた。


(どうなる……?)


ナスターシャ・フィリポヴナを救う戦いは、まだ終わらない。


呆れられたのか、あるいは何かが伝わったのか――


――そして、再び扉が開いた。


スーツの男が戻ってきた。


ゆっくりと、俺に歩み寄る。


その目には、先ほどとは違う、どこか諦めと、かすかな笑みがあった。


「……Знаешь, ты сумасшедший.」

(お前は……狂ってるな)


そう呟いた男は、静かに言葉を継いだ。


「Но таких мы уважаем.」

(だが、そういう者を……我々は敬意をもって扱う)


そして、一枚の書類を机に置いた。


それは、入国許可の判が押された書類だった。


男は無言で書類を指差し、静かに頷く。


「……Добро пожаловать в Россию.」

(ロシアへようこそ)


俺は、深く頭を下げた。


だが、男はそのまま俺の肩に手を置き、低い声で囁いた。


「Но слушай внимательно…」

(だが、よく聞け……)


「Ты всегда под наблюдением.」

(お前は、常に見張られている)


背筋が、凍る。


それでも、俺はゆっくりと頷いた。


彼らが俺を完全に信用することはない。

俺は日本人。西側から来た、ただのサラリーマン。


だが、それでいい。


俺は狂っている。だが、**本気で狂っている**。

ナスターシャ・フィリポヴナを救うためなら、

どんな監視にも、どんな疑念にも、耐えてみせる。


俺は無言で頭を下げ、別室を後にした。


――こうして。


俺はついに、ロシアの地に足を踏み入れた。


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