11:別室行き、確定
【第十章】北京経由モスクワ行き、そして別室へ
北京での乗り継ぎは、特に問題なく終わった。
ターミナル内は広く、人も多い。
漢字ばかりが並ぶ案内板を見て、
俺は思わずつぶやいた。
「おお……読める」
少し安堵した。
だが、ここからが本番だった。
――モスクワ行き、搭乗。
ロシアの空港。
何度聞いても覚えられない、あの名前。
(シェレメーチエヴォ? ドモジェドヴォ? ヴヌーコヴォ? どれだったか……)
もはや呪文である。
だが、それは些細なことだ。
重要なのは、俺が無事にロシアへ入国し、
**ナスターシャ・フィリポヴナを救う**という使命を遂行すること。
長いフライトを経て――
ついに、俺はロシアの地に降り立った。
ロシア語のアナウンスが流れ、
キリル文字の案内板が並ぶ。
俺は、自信に満ち溢れていた。
この3年間で叩き込んだキリル文字。
今こそ、その力を試す時だ。
――入国審査。
カウンター前には長蛇の列。
俺は知っている。
YouTubeの旅行動画で、
西側国籍の者は“別室送り”になる例を、何度も見た。
だが、そんなものは――俺の敵ではない。
かつての俺なら、不安に押し潰されていたかもしれない。
だが、今の俺には、鍛え上げた心と身体、
そして揺るぎない“使命”がある。
俺は、毅然とした態度で列に並んだ。
――そして、ついに俺の番が来た。
カウンターのロシア人係官が、俺のパスポートを開き、じっと見つめる。
「Цель поездки?(渡航目的は?)」
来た……!
俺は深く息を吸い込み、
この日のために暗記したNHK『まいにちロシア語』の例文を答えた。
「Меня зовут Ямада Такаси.」
(俺の名前は山田タカシ)
「…………?」
しまった。これは“自己紹介”だった。
係官が怪訝な顔で、再び尋ねる。
「Какая у вас цель поездки?(あなたの渡航目的は?)」
俺は動揺しながらも、次の例文を口にした。
「Я инженер. Я работаю в большой компании.」
(私はエンジニアです。大きな会社で働いています)
……俺はエンジニアではない。
係官の眉がピクリと動く。
周囲がざわめく。
(しまった……完全に嘘をついた形になっている)
係官がさらに鋭い目で尋ねてくる。
「Вы говорите по-русски?(ロシア語を話せますか?)」
俺は、ここだけは堂々と言える。
「Да!(はい!)」
だが、それを証明するには……もはやこれしかない。
俺は拳を握りしめ、
力強く、ロシア語で叫んだ。
「Моя мама работает в больнице!」
(私の母は病院で働いています!)
※ちなみに俺の母は70歳。働いてはいるが、病院ではない。
係官が無言で手を挙げた。
別の警備員が無線でどこかに連絡を取っている。
――これは、まずい。
(何かフォローしなければ……)
俺は呼吸を整え、係官の目を真っ直ぐに見据えた。
そして、もう一度、力強く言う。
「Я говорю по-русски!」
(俺はロシア語が話せる!)
係官が、深いため息をついた。
「……ちょっとこちらへ」
別室行き――確定。