95.ロシュの限界
ロシュの限界
カグヤはジグとともにルナの最深部を進む。彼女はルツの話しを思い出した。それは地球を守るために、落下する衛星『マルス』にもう一つの衛星『ルナ』を衝突させマルスの軌道を変えたということだった。それは『シード』にも深く関わる話だった。 (以下、再々掲)
「シードとは数十億年前、突如現れた生き物の細胞から続く『生命の糸』です。その遺伝子情報は『恒星(太陽)』から起こる『太陽風』により宇宙空間に放たれたルノチウムが、細胞を通過する際に突然変異を起こす場合もあります。この月に集まったシードも元々は地球にあったものなのです。……古いシードは次の高度な生命体の発現に備えるため、コピーされて月に送られ、今ではルナ国の底に眠っています。やがて人間を超える知的生命体が地球に現れるでしょう、もしかするとそれはカグヤ、あなたの様な姿かもしれません。そしてシードの外殻『ルナティ86』が結晶したものを『ルノチウム』と呼ぶのです」
「太陽系の中で現在地球にだけ大気と水があり、生物が住んでいる。それは奇跡という他はないでしょう。しかし、この大宇宙には等しく生き物は生まれている、これも事実なのです。そして太陽は試練を与える、それが大絶滅を引き起こす。より複雑で高度な細胞は次の繁栄する生物の元となります。別の銀河、外宇宙の惑星であろうと試練は与えられるのです。地球が出来上がり最初の試練は隕石群の衝突でした。あなたがたも知っている通り巨大な隕石が地球に衝突し、恐竜の多くは絶滅をしました。しかしそれ以前にも大規模な隕石群は地球に降り注いでいます。それを救ったのが『マルス』だったのです」
地球の衛星「マルス」は隕石群の直撃を受け、無残な姿になった。地球と二連星だったマルスには「大気」も「水」も「生物」も存在していた。容赦なく大気を切り裂き、マルスに落下するのは、直系数キロメートル以上もある隕石。太陽風により加速した隕石の表面温度は数千度を超えていた、大地は焼かれ海水は蒸発し、大気は四散する。火星の生き物は地下にもぐり、それが収まることをじっと待ち続けていた。だがまだ不安定な太陽系では、その隕石群が止むことはしばらくなかった。マルスの不幸は月と違い、衛星でありながら「自転」をしていることだった。大気の裂け目から宇宙空間に勢いよく水は飛び散っていく。極にわずかに残る水は集まり氷となり、そのために海は干上がり、大地は赤く焼けた土となった。長い間に大量の隕石を受け止めたマルスは「衛星」の規模をはるかに超える程に重くなり、このままではついには衛星軌道から外れ、地球に落下する可能性が高くなった。もちろん地球の生命体にはそれを防ぐ手立てはない。
ルナは地球の衛星だが、生命の誕生は地球より早かった。月は裏側を地球には向けない、ルナに衝突する隕石は「裏半球」に集中し、地球のような大絶滅を引き起こさなかった。時のルナ女王は「ヤタ」と言い、地球に「クシナ」を残した「聖三神」の一人「ツクヨミ」の力を継いでいた。何度かの絶滅の度に生命の遺伝子情報をシードとしてルナに残していたのは、ツクヨミが地球を愛しく思っていたからであった。「ヤタ」の記憶はルナの女王に代々引き継がれていた。ルツは先の女王「シノ」からそうした「創始の記憶」を引き継いでいた。
「話しましょう、マルスについて」
ルツはヤタから受け継いだ「創始の記憶」をたどり、カグヤに話し始めた。
「このままだと、マルスは地球の引力に捕まりついには落下してしまう。そうなればおそらくあの大気も、海も蒸発するだろう。すでにマルスは大気もなく、両極に氷としてわずかの水が残るだけだ。やがてその氷も宇宙空間に放出されるだろう。地下深く逃げ込む生命体は再び甦ることもない」
ヤタは思案した、そして創造主の子孫らしからぬ決断を下した。
「……ヤタはこのルナの大部分をマルスに衝突させたのです。マルスは衝突の際、ルナの爆発的なエネルギー<ルノチウム?>を受け、真っ赤に燃え上がった。マルスは衛星軌道上で次第に加速度を増し、地球の引力を徐々に振り切りました。しかし、それでマルスの速度は収まりません。加速度が増していったマルスはついに真っ赤な火の玉となりやがて地球の引力から解き放たれると、宇宙の彼方に消え去りました。マルスは、地球と同じ大気と水を持つ生命体の住む星でした。しかしマルスはこうして再び火の玉へと戻ってしまったのです、ルナの大気と水、そして星の大部分を連れたまま……」
(以上、再々掲)
ルツがシノから聞いたのは、このヤタの伝承だ。先住民族を乗せたまま地球の引力圏を離れたマルスは地表を真っ赤にしたまま、宇宙空間を進み続けた。太陽から遠くなるにつれ、マルスは次第に冷えていく。ようやく速度も減速し、やがて現在の軌道に落ち着いた。過酷なマルスの環境。先住民がもし通常の生命体であれば生き残ることはできない、しかし彼らは特殊な生命体だったのだ。カグヤのAIに記憶されているのは『橘亜矢』の知識も当然ある。そのままマルスが地球に落下することはないだろう。しかし双方に甚大な被害が出たことは疑いようもない。
「ルナを衝突させなかったら、きっとマルスは『ロシュの限界』を超えたでしょう。その際に起きる『潮汐力』のため星は内部から破壊され、ついには粉々になったのに違いないわ。そしてルツの言った通り、地球にはおびただしい量の隕石が落下し、大気も水も生命も壊滅的な影響が起きたでしょうね」
「ロシュの限界?」
「簡単に説明するとね、近接連星や惑星、衛星などの系。つまり地球、ルナ、マルスのことね。その時地球から見て正面と左右の引力が違い、それを潮汐作用っていうの。潮の満ち引きは月の力だけど、その力が潮汐力。衛星が安定な状態に存在できるためには、主星との距離には最小限界が存在し、これより外側ならば安定軌道を描くが、それより内側に入ると大きな潮汐作用のため破壊されてしまう、この限界をロシュの限界というのよ。ジグわかる?」
「球体が卵型に変形するってことなのか、中身が液体ならいいが硬い岩石だから砕けてしまうってことか……」
「そう、そのためヤタはマルスの軌道を変えたのです」
声の主、ルツがすでに祭壇の奥に待っていた。そしてカグヤに向けて再びルナ国女王がマルスの話を始めた。
「マルスにはオムズという先住民族がいたのです。彼らは個がまだ完全に分離していませんでした。あなたも知っているはずの原始生命体ノアに似ていたと言っていいでしょう」
「似ていた?」
「彼らには生殺与奪を行う存在、『イブ』がいなかったのです」
「イブがいなかった……」
「必要なかったと言ったほうがいいのでしょう」
「必要ない」
「彼らはマルマの子孫、地球や虫人とは別の進化を続けた生命体だからです」




