40.離陸
離陸
アガルタの人魚「エヴァ」を目の当たりにしたコオは、長官が話したことを改めて思い出した。
「君の力を借りたい。アカデミアに来て欲しい」
月面まで届くペンシルロケット「ルナ」を完成させた男。のちのアカデミアの天才エンジニア「韮崎甲」を訪ねた際の長官の言葉だった。彼はロケットのピンポイント発着の精度が、ある「計画」に必要不可欠なことを延々と述べた。その専門用語はコオ以外にはわからないことだろう。しかしその中で信じられない言葉が何度か出てきた。
「アガルタ、人魚、エスメラーダ、オロシアーナそしてマンジュリカーナだったかな。この地球の生き物を絶滅から救ったという、まるでおとぎ話のようだった……」
だがそれは全て現実のことだった。黒服の人間がヤモリやワニの怪物に変わり、男が石化し消えてしまった。そして彼の目は、人魚に変わったエヴァがたった今、凍りつく寒さの海中に消えたのを見たのだ。
「トンッ」
着岸したジェットから飛び降りたパイロットはコオにまっすぐ近づいてくると敬礼をした。
「お迎えにあがりました、コオ・ニラサキ」
軽く頭を下げ彼はホバー・ジェットに乗り込んだ。後部座席のオートセキュリティが作動し、四方を防弾アクリルで囲まれると彼の座席は完全に個室となった。それをインジケーターランプの色で確認すると、パイロットが操縦桿を左に切った。右のジェットエンジンのタービンが次第に回転数を上げた。沖へと微速で進むジェットの中からコオが港を見る。ターニャと母親が手を振っていた、どうやらエヴァの言った通りアーニャは無事だったに違いない。
「離陸します、少し揺れますのでご注意ください」
機体が左右に振れながら海面からゆっくり離れる、海水を垂らしながら垂直にジェットは上昇して行った。そして左右のエンジンが水平に変わり始めた。通常飛行に備えるため、底部の「バルーン(風船)」が収縮し格納された。
「コオ、きっと母さんと私を助けるためにあんな嘘をついたのね」
ターニャの母親は彼が帰ると間もなく、どこかへ姿を消した。後片付けをしている途中、ターニャは食料庫で眠らされていたアーニャを見つけたのだった。
「それで、アーニャ。彼はどんな男の人だったの?」
つまり、アーニャはコオに会ってはいない、エヴァが母にすり替わって彼の相手をしていたのだ。
「彼は日本人、コオ・ニラサキ。港でハーモニカ吹いてた変な奴」
「じゃ今度うちに呼びなさい。試験しなくっちゃあね」
「もう来ないと思うわ、日本人って少食だから……」
それを聞くと鼻で笑って少し自慢気に母は言った。
「父さんは泣きながら食べたわよ、それぐらいじゃないとターニャはあげられないね」
「まあ、母さんたら。私まだ16歳になったばかり、それに私アカデミアに行くつもり。まだまだそれどころじゃあないわ。第一コオには昨日初めて会ったばかりなのに」
「私なんか、あなたの歳には毎日試験だったわよ、駄目ねえ」
それを聞いてアーニャは笑った。しかし心の中ではこう思っていた。
(もし、彼が私の知っている日本人だとしたら、ターニャのことを随分前から知っている。あなたは覚えていないかもしれないけれど……)
それを娘に話したところで同じことだ。彼女はすでに「恋に落ちた」目をしている、アーニャはそう思った。
「やっぱり、血筋かしらねぇ」
「何か言った、母さん?」
「別に、そろそろ帰りましょうか。ジェーシカから電話があったこと、イワノフの船に教えてあげましょう、それにコオの飲みっぷりもちゃんと聞いておかないとね」
「私も、論文の追い込みしておこうっと」
母娘の頭上に白い雲を残して、程なくホバー・ジェットは見えなくなった。




