29.ターニャ・ニコライ
ターニャ・ニコライ
マイトはアガルタでの出来事を思い出そうとしていた。しかし、次々と別人の記憶が現れてくるのだった。彼だけではない、その頃、アガルタの調査にかかわったメンバーには複数の過去の記憶が戻りつつあった。それらの記憶はエドゥルにより、彼らに移された他のメンバーのものだった。彼の深層の記憶の中には次にターニャのものが移されていった。
ターニャ・ニコライ」はロシアの小さな漁師町に生まれた。漁と言っても魚介ではない、クジラやセイウチ、アザラシなどの「海獣」を捕る者たちが猟期に集まる町だ。ターニャは母と二人暮らしだ、母のアーニャは鯨漁に行ったまま帰らぬ人となった夫に代わり、町に一軒きりの酒場を開いていた。
「あーあ、母さんこんなところで寝ちゃダメだよ」
「おや、ターニャお帰り。今日の試験どうだった?」
娘の掛けてくれたブランケットにくるまり、アーニャは重い瞼を持ち上げた。今日はモスクワ大学の入試があった、ターニャは賢くまたとても美しかった。将来はノーベル賞をとるかもしれない、アーニャはその教育資金の為にそれほど好きでもない酒場を続けていた。
「自信はあるわ、でも合格すれば町を出ていかなけりゃダメなのよ」
「当たり前でしょう。母さんの事は心配しないで、あなたはあなたのしたいことをやりなさい」
アーニャが閉店中の酒場を買い取ったのは、愛するターニャに期待するからこそ。それにこの酒場は夫に初めて会った店でもあった。
「ところで、今日おかしな人に会ったの」
「おかしな人?」
「私、試験が終わって帰り道に街中で呼び止められたの。その男の人私のことをラミナって呼んで、知らん顔してたら今度はラナって大声で呼ぶの……」
「ラミナ、ラナ……。まさか、そんなことはあり得ない」
アーニャは耳を疑った。
「ターニャ、その男は、ロシア人だったのかい?」
「ううん、聞き取りにくいロシア語だったから、違うわ。髪も黒髪だし、あの人中国人かなぁ」
「そう、それで何かあったのかい」
「何かって、母さん。それだけよ」
「ターニャは私に似て綺麗だからね」
「あー、母さんたらさりげなく自分アピールしてる」
「まあね、今でも私目当てのお客さんで持っているのよこのお店は」
「はい、はい。そしてこのお店の名前の話ね、母さんの話はバリエーション少ないからな。でもこの店の名前、漢字だっけ、なんか素敵だな。マカって響もいいしね」
「魔訶って日本語では神がかりとか測り知れないとかって意味なんですって」
「しまった、まんまと食いついちゃった……」
そして今夜の母の話は以外と短く、それから三十分で終わった。
「母さんには言わなかったけれど、あの人は日本人。悪い人じゃなさそう、明日もう一度会う約束をしているの。きっぱりこれも返してお断りしておかないと、まずは試験が大切。それ以外のことは後回し、アカデミアはハードル高いからね、おやすみパパ」
彼女は別れ際にその男から渡されたものがあった、木製の小箱だ。その中身は彼女は確認すらしていなかった。
「何だろう?」
ターニャはその蓋を開けて中を覗いた。その中には、薄い皮が入っていた。その皮はシャーレの中で乾燥していた。しかしそれは深い緑の艶を保っていた。厳重に封緘された古いシャーレの入った外箱の蓋には、黒ずんだ文字で『みどり』とだけ書かれていた。
「何かの標本みたい、それとも新しい合成繊維かしら?」
彼女はシャーレを取り出し、カバンに入れると空になった木箱に元通り蓋をしてテーブルの上に置いた。
「大切なものなら、カバンに入れといてあげるわ。悪い奴らに盗まれないようにね、へへへへっ」
ターニャはそう言うとブランケットにくるまった。彼女が想像した通りだった、その皮の様なものは「変異細胞」の貴重なサンプルだったのだ。




