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完璧  作者: 今井 祐一
3/3

第三回

 とある街の、とある駅前。儒服を着た、年配の男性が旗の下で何やら語りを聞かせている。

 その隣りにのぼりが立っている。大書された文字はたった二文字。

 「完璧」と。



「さてみなさん、本日も集まりいただき、まことにありがとうございます。先週は完璧という言葉の由来について、藺相如りんしょうじょが秦へと使いし、会見の場で秦王を睨みつけたところまでお話したかと思います。いよいよこれから物語は最高潮、といったところですがまずは例によってこれまでのあらすじをもう一度お話ししましょう。

 まず、(ちょう)という国が‘和氏かしへき’という国宝級の宝石を()という国から、もしかすると秘密同盟の証として、手に入れました。それを聞きつけた秦が外交政策の一環として、趙に和氏の璧と十五の城との交換を申し込んできました。その申し出というのはは脅しを含んでおりまして、もし断れば国交の断絶と戦争を招いてしまいます。秦は大国なので力ではかないません。しかし、璧を渡しても十五城が手に入るという保証はありません。璧を奪われて泣き寝入りになってしまうかもしれません。趙は君臣とも困り果ててしまいました。

 そんな時、宦官の長、繆賢びゅうけんという者が藺相如ならば使いを果たすことができる、と趙の王、恵文王けいぶんおうに打開策を提示しました。そこで自ら藺相如を引見し、彼が勇士であり、智謀も持っているのをみて恵文王は彼を秦への使者としたのでした。

 秦で秦王と会見した藺相如はその態度に誠意がなく、十五城を渡す気はないと判断し、璧にきずがあると偽って璧を取り戻し、璧を持ったまま傍らの柱に寄りかかりすさまじい形相で秦王を睨みつけたのでありました。ここまでは前回までにお話ししたかと思います。



 怒髪冠をく、逆立った髪の毛が冠を押し上げる、とまで形容されたその迫力にその場にいたものは身動きできなくなってしまいました。そうして誰もが静まり返ったところで藺相如はおもむろに口を開きました。

「陛下は璧を手に入れるため、趙に使者を遣わせなさりました。趙王はそれを受けて秦に璧を与えるべきか、家臣を集めて議論いたしました。秦は貪欲で、強大であるのをいいことに、嘘をついて璧を求めようとしているのだから、璧を渡しても城を得ることはできない、という意見が強く、いったんは交換には応じないということで話がまとまったのです。しかしわたしは考えました。庶民の間でさえ互いにだましあったりはしない、ましてや大国どうしが欺きあったりすることがあろうか。それにたかだか璧一つのことで秦との友好を損なうべきではない、と。幸いにも趙王は私の意見をお聞きくださり、斎戒すること五日、私に璧と親書を託して使者となさいました。それは秦に敬意を表するためのことです」

 ここで彼は一旦言葉を切りました。そして大きく息を吸い込み、より一層力のこもった声で秦王に詰めよります。

「ところが今の、陛下の態度はどうですか。わたしを多くの家臣たちの目に晒し、礼儀を欠くことこの上ありません。璧を受け取るやそれを侍女につたえ、わたしを愚弄しました。それをわたしは陛下に趙へ城を与える気がない、と受け取りました。そのためにこうして璧を取り返したのです」

 ここでもまた、藺相如は間をとります。そして更に、ほとんど叫ぶようにして昭襄王に迫ります。

「陛下がわたしを殺そうというのならそれもよろしいでしょう。それならばわたしは今、この柱に璧もろとも頭をぶつけて砕いてしまいましょう」

 言い終えるや否や、璧をふりかざし柱にぶつけようとしました。周囲は水を打ったように静まりかえっております。藺相如がまさに、璧をぶつけようとしたその時、

「やめよ、……そなたの言うこと、もっともである」

 昭襄王がかろうじて声を絞り出しました。この声は、ともすると遠くに聞こえる都の雑音にかき消されてしまいそうなか細い声でしたが藺相如にとっては思惑通りの展開でしたから、ぴたりと動きを止めて昭襄王の動きを待ちました。

 昭襄王はすぐに側近たちに命じて地図を持ってこさせ藺相如に趙に与える土地を示しました。藺相如はこれを受けて、

「和氏の壁は天下に名高い名宝です。趙王はこれを送り出すに当たって五日間斎戒いたしました。それゆえ陛下も五日間斎戒なさり、宮廷に九賓きゅうひんを設けなさいましたら、私は必ず璧を献上いたしましょう」

 と応じました。斎戒、というのは神を祭るときに、飲食を慎み、心を清めて、家に閉じこもることであります。潔斎と言いかえてもいいでしょう。また、九賓を設けるというのは家臣をそろえて盛大に、といったところでしょうか。とにかく最高級の礼をもって璧を受け取るよう秦に求めたのであります。

 これを受けて昭襄王は藺相如を広成伝という最高級の宿舎に泊め、斎戒をしようとしました。


 宿舎に案内されて一息つくと、副使は藺相如を、

「よく、なさいました」

 と褒め称えました。その目には感動の灯がともっております。従者たちも尊敬と賞賛の目で彼を見上げております。彼は趙の名誉を守り、秦から約束どおり十五城を引き出したのでした。少なくとも、彼らの目にはそう映っておりました。しかし、藺相如は目を閉じたままうつむいております。そこには任務を果たしたという達成感や安堵感は微塵も感じられません。例えていうならば、戦陣におもむく武人のたたずまいといったところでしょうか。

 彼が何も言わないので、彼らの興奮は冷めてしまいました。重苦しい空気があたりを包みます。副使は何かまずいことを言ったかと不安になってきました。一瞬が一時間にも感じられるような長い間の後、藺相如は目を閉じたまま人払いを命じました。

 彼は静かに目を開け、自分と副使しかその場にいないことを確認すると押し殺したような声で言いました。

「副使殿、われわれは死なねばならぬ」

 副使は己が耳を疑いました。自分たちは立派に任務を果たしたはず、なぜ死ななければならないのか。一方ではそうした自分の常識的判断と、しかし他方では藺相如がそう言うなら自分も死ななくてはならないのではないか、という思いが交錯いたしまして表情に疑問が浮かびました。

 それを見て藺相如はもう一度、死なねばならぬ、といってから更に続けました。

「秦は、十五城を譲る気はない」

 なぜなら、と言葉を継ぎます。

「先ほど秦が提示した地図の中には、秦の要地が含まれているからだ。秦がそこまで趙に好意を見せることはありえない。それゆえ──」

 そう言って副使の目を見、そしてまたわずかに伏せてこう告げました。

「璧を趙へと送り返す。璧を、秦に渡すわけにはいかぬ。斎戒は、その時間稼ぎの口実に過ぎぬ」

 うつむき加減で彼の話を聞いていた副使の顔は、弾かれたように上がりました。

「それでは趙が一方的に約束を破ったことになりませんか」

 そう懸念を口にします。

「その通りだ」

 副使は、ではなぜ、と口を開きかけて息を吸いました。そこで、その顔に電光が走りました。

「われわれはその責任を背負って死ぬのだ。われわれは城を受け取らぬ限り璧を渡すわけにはいかぬ。城を得られぬならば、壁は趙に返すほかない。だが、われわれがここを去ることもまたできぬ。秦王に申し開きをし、趙に非がないことを明らかにせねばならぬ」

 しかし、と彼は続けます。

「たとえ秦に非があろうとも、秦は虎狼の国だ。われわれの言い分に納得することはあるまい。結果──」

 そこで彼は息を継ぎました。

「われらは秦に殺されよう」

 二人の密談はそれで終わりました。藺相如は従者の中から目端のきく者を選び出すと、ぼろを着せ、璧を隠し持たせ、ただひたすら趙を目指せと言い含め、すぐに彼を出発させたのでありました。彼を見送った藺相如は副使に一言、

「たとえ殺されようとも、令名は残ろう」

 と力強く言いました。その言葉に副使も深く頷きました。覚悟は出来上がっております。


 五日後、昭襄王は斎戒を済ませ、今度は章台ではなく正式な宮殿で、最高の礼をもって藺相如を迎えました。藺相如は死を覚悟して静かに、しかし確かな声で秦王に言上しました。

「秦は穆公以来二十代あまり続いておりますが、いまだかつて約束を堅く守った君はいらっしゃいません。それゆえ私は陛下に欺かれ、趙王から賜った使命を果たせなくなってしまうことを恐れました」

 昭襄王や側近たちの顔が険しくなりました。藺相如はあからさまに秦王家を貶めているのですから、それも当然のことでしょう。しかし、次の言葉で彼らの顔から血の気が引くことになります。

「そこで私は璧を趙へと持ち帰らせました。おそらくもう国境を越えているかと思います」

 これを聞いて周りの者は赤くなるやら青くなるやら。もっとも、時間と共に赤い者が増えてはきます。藺相如の言葉は更に続きます。

「しかしながら、言うまでもなく秦は趙より強いのですから、陛下が使者をお遣わしになって壁を求めれば趙は直ちに璧を奉じてまいるでしょう。その前に、十五城を割いて与えたならば、趙は約束をたがえて陛下のお咎めを受けるようなことをしましょうか」

 藺相如はここで昭襄王や側近たちの顔を見渡して、こう付け加えました。

「わたしが陛下を欺いた罪は死に値します。どうか釜ゆでの刑に処していただきたい。陛下はこのことを群臣と討議なさいませ」

 昭襄王とその周りの者たちもここまでくると顔を見合わせてあきれるばかりであります。はっと我にかえった者の中には藺相如をひっとらえようとする者もありました。

「やめよ」

 昭襄王の声です。藺相如を捕らえようとした者たちは動きを止めました。

 ここで昭襄王は非凡な器量を発揮しました。あるいはこのとき彼は二十台の前半ですから、藺相如に見られたこの種の得難い勇気を好み、彼を殺してしまいたくないと思ったのかもしれません。とにかく彼はこの気骨あふれる使者を生かして帰すことに決めました。

「いま、この者を殺したとて璧を手にいれることはできぬ。それどころか秦と趙とのよしみを絶ってしまうこととなろう。ここは彼らを優遇して帰国させたほうがよい。趙も璧一つのことで秦を裏切ったりはするまい」

 そして何事もなかったかのように宮殿で藺相如を引見し、儀式を終えた後に彼を帰国させたのでありました。


 帰路、函谷関を過ぎ、副使をはじめ従者たちは安堵のため息をもらしました。彼らの胸は感動で高鳴っております。はじめは使いの目的も知らなかった者たちもその内容を聞いて驚きの声をあげるとともに、藺相如の勇気と智謀を褒めたたえ、趙の名誉を守った彼を畏敬のまなざしで見つめております。今、目の前を進むこの人は命をかけた弁舌で国を救った、まさしく英雄でありました。

 藺相如の胸にはまた違った感動が鳴り響いております。昭襄王は人をだますだけの王ではないことを目の当たりにしたかれは以後、趙と秦との友好に力を尽くすのでありました。

 彼はまた、空を、天を見上げております。天は確かに彼を見ていたのでした。その天に感謝を捧げるとともに、これから高位に登り、趙の社稷しゃしょく、つまり国家をを担ってゆかねばならないと考えるとまた心が引き締まるのでした。


 やがて一行は趙の都、邯鄲かんたんへと帰ってきました。城門のあたりには人だかりができております。その中心には趙王、恵文王の姿が見えます。

 彼は藺相如を送り出すとき、その死を予期しておりました。彼だけではありません。家臣たちも藺相如が生きて、任務を果たして帰るなどとは夢にも思っておりませんでした。

 藺相如が恵文王の前にひざまずいて拝礼します。それと同時に大きな歓声が沸き起こります。恵文王の身もまた、喜びで揺れております。先祖が自らを哀れんで藺相如を天から遣わしたのだ、とまで感じました。恵文王は彼を伴って歓喜に揺れる邯鄲の市街を抜けて宮殿に入り、復命を受けると、

「お前は賢大夫だ。使者となって秦王に辱められることがなかった」

 と言い、すぐさまその場で褒賞を与え、藺相如を上大夫に任じたのです。上大夫といいますと、大臣であるけいとほぼ同格です。およそ三百人の家臣を養うことができます。宦官の一家臣に過ぎなかった藺相如は、使者として趙と秦とを一往復するだけで、大臣となったのでありました。 彼はまた趙の誇りを守り、国中からたたえられました。璧と国の威信を二つながら守り抜き、一つの落ち度も見せなかった藺相如は‘璧ヲまっとウス’と趙の国のみならず、天下にその名を轟かせたのでありました。

 そして、いつしかこの‘完璧’という言葉は欠点がなく素晴らしいということの例えとして使われるようになっていったのであります。



 いかがでございましたか。実はこの後、大臣の位に昇った藺相如にはさらなる試練が待ち受けているのですが、これはまた別の話。機会がございましたらまたみなさんの前で披露させていただきたいと思います。

 ではみなさん、また会う日まで、ごきげんよう。さようなら」

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