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第二部:共有の物語 ―内省が言葉になる― 第9話 「光莉の来店、そして田中」

光莉はこの日もカフェ「あおい」に来ていた。

彼女は窓際の席に座り、ハーブティーを注文した。ノートとペンを取り出し、心理学の研究ノートを開く。


そのとき、向かいの席の気配が、いつもよりはっきりと感じられた。今までただの「気配」だったものが、少しだけ「形」を帯びたように見える。誰もその姿を見た者はいない。でも、確かにそこに、何かが揺れている。


光莉は、その気配に向かって言った。


「私たちは、知らないところで繋がっていた。誰も意図していなかった。でも、それがこの場所の仕組みなんですね。あなたが、その繋がりを作っているわけではない。ただ、そこにいるだけ。それだけで、人は話したくなり、言葉が生まれ、言葉が誰かに届く。あなたは何も言わない。でも、それでいい。それが、この場所の意味なんですね」


返事はなかった。

でも、その沈黙が、彼女に答えを与えた気がした。


その日の夕方、カフェに一人の男が来た。

康介から噂を聞きつけた、部下の田中だった。

彼は結婚式で瞳のスピーチを聞き、康介の会議での言葉も知っていた。それでも、何かが変わらなかった。


彼はカフェの片隅に座り、コーヒーを注文した。彼は向かいの席の気配を感じようとした。感じようと、意識した。


でも、何も感じなかった。


誰もいない席が、ただそこにあるだけだった。


彼は、他の客が誰もいない席に向かって話しているのを見た。彼らは何かを受け取っているようにも見えた。でも、自分には何もない。彼は苛立ちを覚えた。なぜ自分には感じられないのか。なぜ自分だけが取り残されているのか。


「……何もないじゃないか」


彼は苛立ったように呟き、コーヒーを飲み干した。誰かに話しかけようとは思わなかった。話すことが、何も思い浮かばなかった。


彼は店を出た。

その後、彼がカフェに来ることは、二度となかった。

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