幕 菊(一) 嵐の前
「菊様! 千賀姫様を連れてお逃げくださいませ!」
同僚の侍女の声が館の廊下に響き渡った。
「そんな弱気な事でどうしますかッ! まだ館は破られておりません。必ずや援軍はやってきます。それまで、なんとしても守り切るのですッ!」
「菊ッ、菊ッ! こわいのじゃ、こわいのじゃあ~っ」
姫様はたすき掛けに白鉢巻きをして、その手にも愛用の小さな長刀を握って精一杯頑張ってはいた。しかし、その目は涙でべしょべしょに塗らしていた。私の腰にヒシとしがみついてくる。まだまだ幼いのだから、それも当然だった。
「大丈夫です、姫様。伝七郎殿の元へも、そして武殿の元へもすでに使いをやっています。必ずや助けに来てくれますから、それまでの辛抱です」
「こわいのじゃあ……」
それでも姫様はギュッと私にしがみついて離れない。小さな体を震わせながら必死ですがりついてくる。
私は、そんな姫様の頭をそっと撫でてやった。
あの方も姫様が怯えていると必ずそうしていた。
すでに、この館が襲われて四日目の夜。あと二日ほどの辛抱だ。あと二日頑張れば、きっとあの方が来てくれる。
四日前、藤ヶ崎の門は賊徒に対して開かれた。そのせいで、館の周辺は賊に囲まれてしまっている。今日に至っては、館内への進入も一部許してしまっていた。
その為、もう日も暮れたというのに館のそこかしこで上がる怒号が姫様の部屋まで聞こえてくる。今まで攻めきれなかった事に業を煮やしたのか、今日の敵はなかなかにしつこかった。引く様子がない。
姫様は、そんな戦の気配にすっかり怯えてしまっていた。
そんな姫様から視線を移し、開かれた障子の向こうを睨む。
何者かは知らないが、今この藤ヶ崎を取られる訳にはいかない。あの方の手伝いをずっとしていた私には、それがはっきりと分かる。
この国の為に、姫様の為に、すべてを掛けてあの方が一世一代の大勝負に出ているというのに、その退路を閉ざして逃げ出せる訳がないではないか。姫様の命が本当に危なくなるその時まで、最後の最後まで諦める訳にはいかない。
それぐらいやってのけられなくて、どんな顔をしてあの方の妻を名乗ろうというのか。夫の留守を立派に守りきってこそ妻。母上もそう言っていたではないか。立派に守り切って、そしてここに帰ってくるあの方をお迎えするのだ。
武殿……。私は、貴方の留守を立派に守り抜いてみせます。だから……だから、どうか早く助けに来て下さい。
このような事になる前までは、藤ヶ崎は実に平和だった。しかし、あの一報によってそれは破られてしまった――――。
「なあなあ茜。きょうは何をして遊ぶのじゃ?」
姫様が茜を見上げながら言う。五日ほど前に伝七郎殿も送り出して、いよいよ館の中も静まりかえっていた。そのせいか、どうも姫様が落ち着かない。自室の部屋の中をあちらへウロウロ、こちらへウロウロとしながら、廊下に飛び出してはたえ様に怒られて部屋の中へと戻ってくる。
「そうですねぇ……。貝合わせはどうです?」
茜が顎先に指を当てながら少し考えて言った。
「うーむ……。貝合わせかや。こう、もっとばん、ばん、ばーんって感じのが妾は良いのじゃが」
姫様はそんな茜に、両腕を目一杯に広げて主張する。ただ、いつもの事ながら、なかなかに分かりづらい主張だった。言っている事が分かるようになるまでは長い時間が必要である。しかし、姫様はおかまいなしだ。
「はあ。ばん、ばん、ばーんですか?」
「そうじゃ。ばーんなのじゃ!」
姫様は自信満々で伝えているが、おそらく茜には伝わっていないだろう。もう少し熱く競えるような遊びがしたいという事だと思うのだが、まだここにやってきて日の浅い茜にこれを理解しろというのは中々に酷な話だった。
「では、おはじきなどいかがです?」
助け船を出してみる。
「おー! おはじきかや。うむうむ、やろうやろう」
お気に召したらしい。姫様はすっかりやる気になった。
「有り難うございます。菊様」
「いいえ。おいおい、分かるようになってあげて下さい」
「はい」
茜は胸の前でグッと両拳を握りしめている。やる気は十分のようだ。
「では、茜。しばらく姫様のお相手をお願いしますね」
「はい。お任せ下さい、菊様」
「それでは姫様、たえ様。私は席を少々外させていただきます」
「藤ヶ崎大社か?」
私が姫様とたえ様に向かってそう言って一礼すると、たえ様が言った。
「はい。戦の勝利をお祈りしてこようかと」
「戦の勝利もだろうが、あの坊主の無事を祈りに行っているのだろう? 一日も欠かさず毎日毎日精が出るのう。カッカッ」
たえ様は私をからかう。思わず頬が熱くなった。姫様までもが、
「カッカッ」
とたえ様の真似をする。ただこちらは、おそらく何も分かっていないだろう。
「あ、では私も……」
側にいた咲さんがそう言って腰を上げた。こちらは伝七郎殿の無事の祈願だろう。
「おきよさんも一緒に行きます?」
咲さんはおきよさんに尋ねた
「あはは。私はいいわ。こちらの事は任せて、二人でしっかりとお参りしてきて。うちのは、殺しても死ぬようなタマじゃないから」
おきよさんはそう言って笑った。でも、私は知っている。昨日おきよさんは、声を掛けられない程に真剣な顔をして手を合わせていた。その姿を神社で見かけた。
ただ、それを言っても恥ずかしがらせてしまうだけだろう。ここは知らぬ振りで厚意に甘える事にする。
「では、ご厚意に甘えさせていただきます。帰りにおまんじゅうでも買ってきますね」
「あら、嬉しい」
おきよさんは、いつもの彼女らしくカラカラと笑った。姫様も、おまんじゅうと聞いて目を輝かせた。姫様は甘いものだといくらでも食べてしまうので、普段は私やたえ様が制限をしている。だから、今日は甘いお菓子にありつけると考えられたのだろう。
私はそんな姫様の方を向き、
「では、少し席を外させていただきます」
と頭を下げた。
「うむ。おまんじゅうを忘れないようにな」
姫様はいつもの満面の笑顔で送り出してくれた。
館を出て北門の方へと向かう。
藤ヶ崎大社は町の中を流れる御神川の北側――町の北門から少し南西に行った辺りにある。ちょうど商業区の北の端辺りだ。
社に近づくと、参拝客を対象にした土産物屋などもちらほらと見えるようになる。姫様が楽しみにしておられるおまんじゅうを売っているお店も何軒かあった。
そんな店を眺めながら咲さんと参道を進んでいくと、百段ほどのなかなかに立派な石の階段が見えてくる。ここを上まで上ればお社がある。
上まで上り社の本殿の前までやってくると、私と咲さんは両手を合わせた。
(……どうか武殿がご無事で戻られますように。そして、どうか水島のお家を勝たせて下さい……)
私はいけないとは思いつつも、先に武殿の事を神様にお祈りした。武殿は水島の為に命を張っているのだ。そんなあの人の無事を戦の勝利よりも先に祈るのは不心得だろう。しかし私の正直な気持ちは、あの人に無事帰ってきて欲しかった。
チラリと横目で隣を見れば、咲さんも真剣に祈りを捧げている。彼女も、おそらくはただただ伝七郎殿の無事を祈っているに違いない。
男の子は、何かに夢中になると他の事は忘れてしまうから。せめて私たちが、神仏に祈りの一つも捧げておかなくては危なくて仕方がない。
私も、もう一度しっかりと手を合わせる事にした。