第二百十六話 神森武の大返し でござる
ガリガリガリ。
俺が髪をかきむしる音がやけに響く。
目の前では、使者の男も難しい顔をしたままこちらを見上げていた。
どうすればいい。
いくら考えても答えが出ない。俺としては、今すぐにでも菊や千賀の元へ飛んで帰りたい。だが、俺のその思いは私情百パーセントだった。自覚していた。もちろん千賀がいる藤ヶ崎が襲われているのだから、それを助けに戻って悪い訳がない。
しかし、俺はそんな事は考えていない。自分の事だけにはっきりと分かっていた。俺が助けにいきたい理由は、一から十まで私情で出来上がっている。
これが、ちょっとばかしマズイ程度なら俺は迷わず藤ヶ崎へ戻る。だが、ここでのロスのマズさは『ちょっと』では済まない。
事実上、どちらを選んでも不正解というとんでもない選択肢だった。
しかし、である。そこに考えが至った時、俺は吹っ切れた。どっち選んでも間違いなら、自分の信念に従って間違えようと。
そう思ったのだ。そして覚悟を決める。
「分かった。ご苦労。すぐに町へと戻って、俺たちが到着したらそのまま藤ヶ崎に発てるように準備をしておいてくれ。|糒〈ほしい〉三日分と竹筒に水を詰めて三百人分用意するんだ。急げ!」
「は、はっ!」
使者の男は一礼して、すぐに馬首を返して田島の町へと戻っていった。これで、おそらくは俺たちが町に着く頃には、三百人分の荷が出来ているだろう。
日数のかかる旅では、馬でも人でも一日の移動距離はあまり変わらない。馬の脚は速いが、人を乗せて速く走り続けられる訳ではないからだ。だから、馬を走らせても藤ヶ崎までは約三日かかるので、朱雀隊と足軽隊の混成部隊三百で藤ヶ崎に向かおうと決めたのだ。
俺としては、その三日を菊が凌いでくれる事を祈るしかない。
高木高俊が東の砦から出ている筈なので、事実上は菊が一日保たせてくれれば俺たちの到着までなんとか耐えられる可能性はある。彼が無事菊の元に到着すれば、間違いなく俺たちの到着までは持ちこたえてくれる筈だから。
使者が去った後、俺は与平の方を振り向く。
「すまん、与平」
「何を謝っているんです? 当然でしょう」
俺は沢山の犠牲を払って進んできた道をふりだしに戻らねばならない事に謝罪したのだが、与平はニカッと笑った。
俺に気を遣ってくれているのだろう。俺は余計に悪いなと思いながら、
「少なくとも田島からは下がらないといけない。東の砦あたりで追い打ちが来ないように備えていて欲しい」
と与平に頼んだ。田島では、神楽忍軍や美和にいる金崎の兵が南下してきた場合に守るのがとても難しい。十分な兵を渡してやれないのだ。極めて危険である。
俺は、それを踏まえて東の砦まで下がるように言ったのだ。
だが与平は、ゆっくりと首を横に振った。そして、
「いえ。田島で踏ん張ってみようと思います」
と、先ほどと同じ笑みを浮かべたまま宣言したのである。
「なっ!? お前分かってるのか? 神楽の奴らだって、もう俺たちのハッタリには気がついているだろうから、次の動きを始めているんだぞ? それに、金崎に動かせる兵がいないと言っても美和にはいる。田島だと一時的に兵を回してくる可能性もないとは言えない。それに――」
俺は与平に向かって細かい状況を説明しようとした。しかし与平は、
「良いも悪いもないじゃないですか。武様が戻ってくるまでここを押さえていられるかどうかで、今後の展望は変わります。武人の命は、こういう時に張る為にあるんですよ。だから格好よく守っているうちに、さっさと帰ってきて下さい」
と俺の言葉を遮って、肩をすくめて見せたのである。
すべてを承知した上で俺に行けと言っていたのだった。俺は胸が熱くなった。ホント、俺は仲間にだけは恵まれている。
「……ホントにいいのか?」
「無論です。その代わり、こんど何か奢って下さいね」
もう十分に稼ぎもあるだろうに、与平はそう言って再びニカッと笑った。
「上等だ。無事守り切ってくれたら、浴びるほど酒を飲ませてやる。頼んだ」
「頼まれましょう」
与平はそう言うと、話は済んだとばかりに飄々とした足取りで、自分の持ち場である殿へと戻っていった。
離れていく与平の背中に、俺は胸の中で頭を下げる。
そうと決まれば、こんな所で油を売っている暇はない。一刻も早くここを発たねばならない。田島から藤ヶ崎では普通なら三日かかる。こういう時はガソリンで走る鉄の馬が欲しくなる。が、その望みが叶う事はない。だから、到着までの時間を目一杯縮めても二日半ってところだ。
もしこれが急使とかならば、伝馬制を導入しておけば乗り継ぎによってもっと早く移動できる。しかし、三百からの兵に乗り継ぎをさせる馬などどこにもいないから仕方がない。
どれほど気が急いていても、馬を休ませながら計画的に進むのがもっとも早く藤ヶ崎に着くのである。
「よし。そうとなれば急いで田島に戻るぞ。出来れば二日半で藤ヶ崎に着きたい。東の砦の高木高俊が先に藤ヶ崎に向かってくれているとは思うが、東の砦の兵だけでは厳しいだろうからな。田島に着いたら早急に兵を再編して藤ヶ崎に向かうぞ」
あれこれ計算した結果、太助ら三人および朱雀隊の連中に俺はそう指示を出した。
「「「「はっ」」」」
太助、吉次、そして周りにいた朱雀隊の面々は応答を返してきた。しかし、八雲は返事をしなかった。顎に手を当てて、ひたすらに考え込んでいる。
「ん? 八雲、どうかしたのか?」
「え? ああ、その、うーん。神森様、もしかすると藤ヶ崎に一昼夜で着けるかもしれません」
八雲は迷うような素振りを見せたが、それでも思い切るように顔を上げて答えた。
「何っ!?」
正直、驚きを隠せなかった。もしそれが本当なら、俺は喜んでそれを採用する。だが、本当にそんな方法があるのかと思わずにはいられなかったからだ。
「はい……。ただ不確定な部分があるので、果たして進言しても良いものかどうかと……」
「構わん。もし良い考えがあるのなら教えてくれ。それを採用するかどうかは俺が決めるから。まずは案だけでも良い。何かあるのなら教えて欲しい」
「分かりました。私は二水の牧場の件で、牛や鶏を探してあちこち探し回りました。その時にこちらの方にも来たのです。だから何カ所か、馬がいる牧場も知っています」
ああ……。
そうか、そうだよ。
背中にゾクリと走る物があり、心の底から『これだっ!』と思った。
「だからそこで買って、馬を乗り換えれば……」
「最速で藤ヶ崎に着けると」
「はい」
瓢箪から駒だった。何がどう繋がっていくか分からないものである。
ただ、八雲の表情はまだ優れない。
「何か不安があるのか?」
「はい。今回の場合だと、乗り換え一回でも三百頭の馬が必要になります。だから、ざっくりと考えて三つほど問題点があります」
「続けてくれ」
俺は耳を傾ける。
「一つは銭の問題。三百頭の馬は決して安い買い物ではありません。二つ目は牧場の規模。一カ所で三百頭買えるようなところは一つもありませんので、分れて各牧場を目指して藤ヶ崎での合流になります。三つ目は、相手が売ってくれるとは限らないという事。すでに商談の纏まった話ではありませんので、売ってくれるかどうかは不確定です」
「確かに」
八雲の懸念はもっともな事だった。
金はこの緊急事態だから、まあいい。あとで伝七郎に話をつける。棚からぼた餅で、源太が喜ぶだろう。だが、残り二つは結構厄介だった。
「銭はいいとしても、残りはアレだな。その牧場を知っているお前としては、何カ所の牧場から買うのが良いと思っているんだ?」
「そうですね……。三百はさすがにいなかったと思いますが、百頭以上の規模で馬の生産をしている牧場は四つありましたので、そのうちの三つから買うと良いでしょう」
「つまり、三つに分れろという事だな?」
「はい」
「となると……三つ目の売ってくれるかどうか分からないってのが一番の不安材料か……」
「はい……」
こればかりは行ってみないと分からない。なにせ確認の使者をやっている時間の余裕などない。そんな時間があるならば、普通に馬を休ませながら藤ヶ崎に帰ればいいのだ。
「一か八かになるな……。その四つの牧場は田島と藤ヶ崎の間にあるんだな?」
「二つは間にあると言っても過言ではないかと。残り二つは若干外れています」
「つまり売ってもらえなかった場合は、その外れた一つだけは本来の到着に要する三日以上に時間を食う事になると」
そう言いながらも、俺の心はもうほとんど決まっていた。
「そうなります」
「でも、この博打は魅力的だなあ」
「こちらの思い通りになるとは限りませんよ?」
田島の町を落としたので、牧場のある辺りは俺たちの勢力圏内に入っている。しかし、まだ安定していない。だから牧場から見れば俺たちは新しい領主様であり、様子見をされる可能性もなくはないのだ。
新しい主人とのパイプつなぎの機会が出来たと思ってくれるような、商魂たくましい牧場主たちである事を期待したい。
「分かっている。だが、この案は乗る価値がある。よく教えてくれた、八雲。採用だ」
俺は親指を立て、八雲の前に付きだした。
八雲はキョトンとした顔をする。
「なんです? それ」
「グッジョブ」
「ぐっじょぶ?」
「よくやったって事だよ」
そうと決まればとばかりに、俺たちは田島の町へ急いで帰った。俺と八雲の話を黙って聞いていた太助、吉次や朱雀隊の十人隊長らも、方針は決まったとばかりに迷いなく全速力で走った。兵たちも、何がなにやらと戸惑ってはいたが、それでも黙ってついてきてくれた。
田島の町ですぐさま藤ヶ崎へ発つ事を発表した時も、若干ざわつきはしたもののやはり黙ってついてきてくれた。まだうちの兵に組み込まれて間もない者たちも沢山いたが、それでもなお大した問題は起こらなかった。与平に余程しっかりと仕込まれたようである。
俺はその事に感謝し満足しながらも、馬を全速力で走らせていた。
「急げ、急げ! 全力で走らせるんだッ!」
「ちょっ、神森サマッ。護衛する方の身にもなってくれッ!」
「泣き言言ってんじゃねぇ! お前茜ちゃんがどうなってもいいのかっ! 文句は藤ヶ崎を守り通してからゆっくりと聞いてやる!」
「だーッ、もう知らんッ!」
俺は叫びながら、馬の尻に鞭を当てる。そんな俺の後を、太助は泣きながら付いてきていた。
隊は三つ。俺の朱雀隊、吉次と八雲それぞれに率いられた足軽隊が二つ。牧場の位置から言って、順当なら俺、吉次、八雲の順で藤ヶ崎に入る事になるだろう。
動き出した俺に、もう迷いはなかった。
菊、千賀。なんとか持ちこたえていてくれ。
それだけで心の中は一杯だった。
「者ども急げッ! 飛ぶが如く駆けに駆けよッ!」