第二百十五話 マーフィーさんそんなに頑張らなくても……でござる
神楽の忍びたちは、あの後まるで潮が引くかのようにサッと下がっていった。与平らに圧力をかけていた槍部隊も、弓隊相手にようやく有利な接近戦に持ち込む事に成功していたのに、それを惜しむ様子もなくあっさりと下がっていった。
すばらしく組織だった相手だった。
そして俺たちは、そんな相手を撃退した。素直に喜ぶべき所だろう。だが、どうにも気持ちが悪かった。
『この様な場所にいて良いのか?』
言われてすぐは無視できたが、敵が去り気持ちが落ち着いてくると気になってしかたなかった。
まるで呪いの言葉のように、頭の中に張り付いている。気がつくと今こうしているように、この事を考えていた。
「どうかしたのですか?」
八雲が怪訝な顔をして尋ねてくる。近くで護衛してくれている太助や吉次にしても、聞いてこそこなかったが視線はこちらに向いていた。
「んー。ちょっとな。さっきの忍びの大将格らしき奴が残していった言葉がなあ……」
俺たちは一旦体勢を整え直すべく田島の町へ帰還している途中だったが、その帰路の馬上で俺は唸り続けている。
「残していった言葉?」
八雲も眉根に皺を寄せた。
「ああ。『この様な場所にいて良いのか?』とな」
「ああ、そういえば言ってましたね。でも、気にするほどの事でもないのでは? 私たちが入って以降は、田島の町の出入りはずっと見ておりますし……ただの『はったり』だと思いますが」
「だと良いんだがなあ……。なんか胸騒ぎがするんだよ。理由を説明しろと言われると困るんだけどな……。うーん……」
改めて聞かれるとはっきりと答えられないが、ただどういう訳か気になって仕方がなかった。
そして、そういう悪い予感に限って当たってしまうものなのである。
もう間もなく田島の町だというところで、急使が俺たちの元へと駆け込んできた。そして、使いの男は顔を青ざめさせながら叫んだ。
「藤ヶ崎が何者かに襲われました!」
……なんだって?
俺は間抜けな顔を晒してしまった。
藤ヶ崎が襲われた? なんで? どうして?
思考が追いつかない。だって、襲われる訳ないだろ? 伝七郎が御神川近くに陣取っているはずだし、継直や金崎には藤ヶ崎を攻める術はない。霧賀とは同盟をしている。残るは佐方だが、あそこがあるから爺さんらが藤ヶ崎に残っているのだ。攻めてきたという報告もないままに、いきなり藤ヶ崎が戦場になる事など考えられない。永倉平八郎は、そんな間抜けじゃあない。
じゃあ、どこだ?
跪く急使の男を馬上から見下ろしながら、俺は必死で考える。だが、答えが出てこなかった。
「襲われたって……誰に?」
だから、そんな馬鹿みたいな問いかけをせざるを得なかった。『何者か』などという不明瞭な言葉は、普通報告では使われない。叱責ものである。しかし、それでもなお『何者か』になっているという事は、本当に正体不明な筈なのだ。
「申し訳ありません。それは我々にも分かりません。使者は藤ヶ崎から東の砦、北の砦に向かって出て、我々の元には東の砦よりの使者が駆け込んでまりました。その使者が言うには『何者かが突然町に襲来した』との事です」
その話を使いの男から聞いている時、殿を担当していた与平もこちらにやってきた。行軍が止まったので、何事かとやってきたようだ。
「武様。そんな落ち着いている場合じゃありませんよ。何がしかの手を打たないと」
余りの事に俺が思考を停止させているのを見て、与平はそう進言してくる。今しがたの使者の説明は聞こえていたらしい。それで状況をあらかた理解したようだった。
「あ、ああ。そうだよ。それどころじゃあないッ!」
俺は馬を打つ鞭を自分の足に振り下ろす。
パアアン。
いい音がした。ちょっと強すぎた。だが、このくらいでちょうど良かった。与平の言うとおり、呆けている場合じゃないのだ。
与平の奴も、周りにいた太助ら三人も目を丸くする。が、俺はそれを無視した。
「ッ痛ぅぅ。で、爺さん――永倉平八郎は今どこにいる?」
北の砦にも同時に使者が走ったという事は、伝七郎のところにもそろそろ着いている頃だ。そして、俺と伝七郎の元へ急使を出したという事は、俺たちの対応を考慮に入れて爺さんがすでに動いている筈である。
「永倉様は佐方の対応に出ているようです」
「な、何ぃ!?」
聞いていなかった。
「なんでも四日前に、佐方の騎馬隊が藤ヶ崎方面に向かっているとの報せがあり、それに応じるべく永倉様は藤ヶ崎を出たとの事ですが、その翌日に藤ヶ崎が何者かの襲撃を受ける事になったという事のようです」
なんという……。
絶句してしまった。話を聞いていた与平や、太助らも同様だった。皆が皆、なんだそれは? という顔になっている。
偶々か。それとも嵌められたのか。
いずれにしても最悪の状況だった。
「じゃあ、今は誰が藤ヶ崎の指揮を執っているんだっ!?」
誰もいない。爺さんも百人隊長くらいなら何人か残していっているだろうが、こんな訳の分からん事態に対応するには力不足だろう。
菊、千賀……。
脳裏を二人の顔がよぎった。心がざわめく。沸き起こる焦燥感が半端ない。それを無理矢理押さえ込もうと頑張ってみるが、正直出来ている自信がない。
「菊姫様が指揮をお執りになられているそうです」
「菊が!?」
「はい。そう聞いております」
菊が出張っているなんて……って事は、やはり藤ヶ崎には将がいない状態だ。あいつは好んで出張ったりしない。
余計に気持ちが焦った。
どうする。どうする……。
まともに頭が働かない。東の砦には高木高俊がいる。彼も向かってくれているだろうから、将に関してはそこまでは心配ない筈だ。彼が到着するまで、なんとか保ってくれれば……。
そこまで考えて、肝心な事を聞いていなかった事に気づく。俺は、余程に気持ちが動転していたようだ。
「それで藤ヶ崎の兵と敵の数は?」
「藤ヶ崎に残っている兵は二百。敵は五百ほどとの事」
「多いな……」
思わず正直な感想が漏れてしまった。誰のものかは分からないが、グビリと喉の鳴る音もした。
しかし、やっと俺の頭も少し働き出す。
五百って……正体不明の敵が五百?
多すぎだった。野盗あたりかと思ったのだが、この数ではその線は薄い。塩の件で、近隣に存在する野盗については調べ終わっている。この規模のものは報告にはなかった。調査漏れの線が絶対にないとは言わないが、それでもその確率は低い。
となると、いよいよマズイ。
高木高俊がいても東の砦からの兵だけでは厳しい。まして、敵がどこかの『正規軍』だった場合には……。
いや、それ以前の問題か。高木高俊が到着するまでは、菊が二倍以上の賊徒を相手に戦う事になる。敵の正体がただの賊であったとしても、十分危機的状態だ。
どうする……。
助けにいかなくてはならない。それも一刻も早く。しかし、いま田島から兵を動かしてしまうと神楽の忍びたちに取り戻されてしまうかもしれない。そうなれば、継直とのタイムトライアルで大変なハンデを負う事になる。おおげさでもなんでもなく、国家存亡の危機を迎える事になってしまうだろう。
いま藤ヶ崎を救えても、結果的に何も救えなかったという事になっては意味がないのだ。
八方ふさがりだった。
あの神楽の忍びの言葉が頭の中に戻ってくる。
『この様な場所にいて良いのか?』
なるほど、確かにこんな場所にいていいのかという話だ。俺は、あのクソ忍者に唾を吐きかけてやりたい気持ちで胸が一杯になった。