第二百十一話 炎に向かって でござる
しかし、なんだね。ホント遠慮ってものを知らなくて困る。
熱を帯びた風と煙が進軍方向からひっきりなしに吹き付けてきて、げんなりせずにはいられない。
だが、いつまでもこうしてのんびりしている訳にもいかない。火の中を突っ切るなら、まだ比較的火勢の弱い今しかない。この機を逃せば、それもできなくなる。火そのものも怖いが、こういった火計で最も怖いのは酸欠だ。煙に巻かれたり、燃焼に伴う酸素の消費で、人は簡単に動けなくなるのである。
その事を考えると焦れてくる。が、隊列の先頭が動き始めるのを、じっと待ち続けた。
与平の奴ならば、なんのかんので俺を信じて動こうとはしてくれるだろう。問題は、兵が大人しく与平の指示に従ってくれるかどうかである。今回の指示は内容が内容だった。だから、与平が兵たちの信頼をどれ程得ているかにすべてがかかっている。
もどかしい。が、待つより仕方がない。兵たちが心を決めてくれなくては、どうにもならないのだ。下手をうてば、兵たちは混乱を来して軍の体を保てなくなる。
だから、頼むぜぇ……。
俺はここからでは見えぬ与平の姿を求めて、ただ隊列の先頭を眺め続けた。
しかし、残り時間ももう少ない。
炎の勢いも刻一刻と強くなってきている。俺たちが森の中にも逃げず、自分たちの方にも向かってこないとなったら、神楽の者たちはすぐに次の手を打ち始めるだろう。
だから、その前にこちらが動かねばならなかった。
いま俺たちは後手後手を踏んでいる。しかし、ここで奴らの想定外の動きをして虚を突けば、うまくすると攻守交代の流れへと持って行けるかもしれない。
互いの思考を読み合うような戦の中で、こういったチャンスは貴重なのだ。それ故に、こういう機会を無駄にしていては、とてもではないが勝利など覚束ない。
馬の背でただ手綱を握りしめて待つしかない事に苛立つ。だが、その心は決して外に漏らさないように気をつけた。俺の周りを固めているのは経験豊富な精兵たちだが、それでもこんな状況では、俺が浮き足立ったら迷いも生まれるだろう。だから、少なくとも傍目にはどっしりと構えている必要があった。
待つ。そして、待つ。
おそらく時間は大して経っていない。ただ、非常に長く待っているような気がしているだけだろう。
更に待つ。
そして、ようやく待ちに待った時は来た。
隊列が動き始めたのだ。
前進――――
与平は、兵たちに火中へと飛び込む勇気を持たせる事に成功したのだった。
「前進……みたいですね」
八雲はそう言って、グビリと喉を鳴らす。太助や吉次も、生唾を飲みこんでいた。
三人とも、俺の説明を聞いてその意図は理解できているだろう。だがそれでも、正気か――という思いは拭いきれないらしい。命じる俺も俺だが、その命に従う与平も与平だと思っているようだ。
だがその三人以外は、もうすでに腹が決まった顔をしていた。これまで苦楽をともにしてきた朱雀隊の者たちは、俺の命を聞いた直後こそ目を丸くしていたが、今はもう引き締まった良い表情で、熱風吹き付けてくる前方をキッと睨み付けている。
「よし。俺たちも行くぞ。隊列を前後させる。足軽たちを先に行かせろ。殿が朱雀隊だ。水島の精兵の力がどれ程の物か……神楽の者たちに教えてやれ」
「「「応っ」」」
俺の指示に、周りにいた朱雀隊の兵たちは太くどっしりとした応答を返してくる。気合いは十分だった。
「……信じらんねぇ」
太助は、思わずといった感じで呟いた。それを耳にした朱雀隊の一人が、ニヤと口の端を上げて笑う。
それを見て太助は、いよいよ狂人を見るような目をして戦いていた。
ビビュン――――
切り立つ崖の急斜面から、木の枝の上から、矢が次々と放たれる。
だが俺にはもちろんの事、朱雀隊の誰にも当たらない。躱せそうな物は躱し、味方の命を奪いそうな射線の物は、打ち落とせる位置にいる者がその悉くを打ち落としていく。
だが、槍兵の方はそう簡単にはいかなかった。俺たちが炎の中を前進しているのを確認したらしく、敵は慌てて槍隊を突進させてきたのである。
しかし場所は山道であり、もともと道幅が狭い。互いに兵力の一部しか交戦状態にはならない。しかも朱雀隊の者たちは、俺の直率の精鋭部隊だけあってチームによる戦闘が徹底的に仕込まれている。時間の経過と共に、兵の死傷者の数は彼我でどんどん差が開いていった。朱雀隊は、伊達に水島の精兵部隊の一隊ではないのだ。
「足軽隊の方はどうなっているっ?」
「ほぼ通過しているな。ただ、火は広がっている。こちらに迫ってきているぞ」
俺の言葉に、太助が答えた。見れば、炎が先ほどよりも近づいている。風が向こうからこちらに向かって吹いているせいで、雪が降り積もった木々までが燃え始めたようだ。というか、これは神楽の忍びたちの計算のうちの筈だろう。
「狼狽えるな。奴らとて、火を使う以上、当然風くらい計算に入れているさ。足軽隊の後、すぐに俺たちも炎の中へと向かうぞ。死にたくなければ、炎の道を突っ切るしかない。お前ら、腹括って踏ん張れよ?」
太助のその言葉に、俺は三人を順に見回しながら、そう伝える。
「まったくっ。神森様と一緒にいるとホント退屈しないねっ」
吉次がやけくそ気味に吠える。
「そんな皮肉が言える余裕があれば上等だ。まだまだいけるさ」
カラカラと高笑いをしながら、俺はそう言ってやった。こういう切羽詰まった状況だからこそ、俺は常以上に余裕のある所を見せなくてはいけなかった。そうでなくては、兵たちはより一層不安を募らせてしまう。
しかし、そんな俺の気配りはこいつらには通じなかった。八雲は、
「勘弁して下さい……」
と割と本気で涙目になっていた。
槍隊による交戦が不利と悟ったらしい敵の指揮官は、あっさりと里の鎧武者たちを下げ始めた。少し離れて隊列を組み牽制させてはいるものの、槍衾による撃破は諦めたようである。
ただその代わりに……。
ヒュン、ガン、ゴゴンッ――――。
矢と落石が激しくなった。
ヒュン。
俺の所にも矢が飛んでくる。
しかし――――
「ちょっ、おいっ!」
カンッ。
太助が自慢の大刀で、その矢をたたき落とした。
その後も何本か飛んでくる。
「だーっ。こな糞っ。いい加減にしろよっ!」
その矢も、太助は打ち落として見せた。その様子を見て、吉次と八雲が射線と俺の間に入る。朱雀隊の者たちも、より一層周囲を警戒し始めた。
そろそろ俺たちも行くか。
そう考えた時には、目の前に石が落ちてきた。人の頭ほどの大きさの石だった。
それを見て思う。
やはり、こちらの動きは敵さんにとっては予想外だったかと。
ここに来る前――最初の落石計の罠で落とされた石は、小さい物でも一抱えに出来ないような大きな岩だった。それと比べると、今落とされている石はとても小さい。
もし俺たちが火中の前進ではなく、転進して奴らの方へと向かっていたら、上から降ってきたのはおそらくは最初の落石計と同じ大きさの岩だっただろう。
だが、俺たちは奴らの想定通りに動かなかった。そのせいで予定が狂ったのだ。それによって、落石計の岩が持って移動できる大きさにサイズダウンしたのである。
どうやら、思考の読み合いはこちらに軍配が上がったらしい。俺はそう確信した。