幕 伝七郎(四) 仕込み
「なぜ戦場に来られなかったのかっ!」
川島朝矩の使者が、顔を真っ赤にして怒り狂っている。ここに陣を張ってしばらくして、川島朝矩は宣戦布告をしてきた。
が、私はその話を聞いて出陣しなかった。そうしたら、その翌々日、川島朝矩はこうして再び使者を寄越してきたのである。
「なぜと言われてもな。むしろ、こちらが聞きたい。なぜ、我らが出ていかねばならぬのか」
私は、真顔で使者に問いかける。
使者の男は、私のその言葉を聞くと、呆然とした顔をした。しかしすぐに、噛みつかんばかりに大口を開けて声を張り上げる。
「巫山戯ておられるのかっ!」
その声は、使者と対面をしているこの大天幕の中はおろか、おそらくはかなり遠くまで響き渡った事だろう。演じる必要がなければ、顔を顰めて、耳の穴に指でも突っ込みたいくらいだった。
私の後ろ左右に立って護衛してくれている、信吾と源太にしても同様だろう。天幕の入り口に分かれて立っている警護の兵も、黙って澄し顔を保ってはいるが、やかましいなあと言わんばかりに使者の男の方に視線だけを向けていた。
私は一人で騒いでいる男に向かって、真顔を保ったまま言う。
「いやいや。誰も巫山戯てなどおらぬよ」
本気で分からぬと言わんばかりの私の様子に、男は激しく動揺を見せた。
この男は、昔の私たちでもある。それが当たり前だった。だから今、この男の困惑振りが手に取るように分かる。
だが武殿と出会って、知らず知らずのうちに私たちも随分と染まってしまったようだ。信吾や源太は勿論の事、兵たちですらも、私がこんな事を言っていても動じる気配は微塵もない。
私は、ひとり胸の内でほくそ笑む。彼我の意識の差に、これでは武殿が勝利し続ける訳だと思いながら。彼らは考え方が固まりすぎていて、こちらの良いように掌の上で踊っていた。
油断すると笑みが漏れそうになる。だが、それはなんとか堪えた。
まだ勝利した訳ではない。慢心は敵だ。このまま、武殿の案を最大限に生かせるように持って行ってみせる。
そんな事を考えていると、男は再び吠え立てた。
「その言葉が巫山戯ていると申し上げているっ。貴殿は、我らの宣戦布告に『承知した』とおっしゃったではないか。あの言葉は何だったのか。刻限に約定の場所に出向いてみれば、兵の一人もいない。その理由を尋ねに来てみれば、『なぜ我らが出て行かねばならないのか』などとおっしゃられる。これを巫山戯ていると言わずして、何を巫山戯ていると言うのか。貴殿は、神聖な戦をなんと心得ておられるっ。それでも武士かっ!」
こちらに掴みかからんばかりの勢いだ。使者としての最後の理性で、なんとかそれだけは堪えているというのが、ありありと見て取れる。その体は、小刻みに震えてすらいた。
だが、興奮しているのはこの男だけで、私も、そして私を護衛してくれている信吾や源太すらも身じろぎすらしていない。カチャリと鎧の擦れる音一つしていないから、間違いなく二人とも不動を貫いている筈である。
彼と、私たちの間には埋めがたい感情の差があった。
信吾も源太も、私の『策』をすでに知っている。だから、男がどれだけ口汚く私たちを罵ろうと、眉一つ動かす事はないだろう。兵たちも将らのその態度に、心安らかな様子だ。
こちらには、まったく不安がない。
私はそんな安心感を覚えながら、策をなす為になおも演技を続ける。
「もちろん我らは、誇り高き水島の武士よ。本物の誇りを知る武士よ。お主のような間抜けとは違ってな。それとも金崎の武士は、揃ってお主のように『ここ』が足らぬのか?」
トントンと指先で自分の額を叩きながら挑発してやった。
効果はてきめんだった。
「なっ!? 約定を違えただけでなく、そのうえ更に我らを愚弄するのかっ!」
とうとう体裁を取り繕う事も忘れて、そう食ってかかってきたのだ。
そこで始めて、私は動いた
床几の上で、組んで座った膝に肘をつくようにして前のめりになり、男の目を真っ直ぐに射貫くようにして見据える。
「っ!?」
使者の男は、若い私が今の今まで数々の暴言を捨て置いて話を聞いてきた事で、こちらを完全に舐めきっていたようだ。突然態度を変えた私に、ゴクリと唾を飲み込んだ。
やれやれだ。
愚弄するなは良いが、だったら馬鹿にされるような真似をしないでもらいたい。使者として、この男は二重に失格である。一つは敵の大将に、一使者が立場を弁えていない点で。そしてもう一つは、今こうして、私にその感情を簡単に読まれてしまっている点で。
正直ここまで酷いと、今までよく金崎家は保っていたなと感心すらしてしまう。まあ、武殿もよく言っているように、敵の無能は喜ぶべきだとは思うが。
只この分だと、兵はともかく、取り込める将は少なそうだ。
それが少々残念ではある。金崎領を併呑するまでは願ったりと笑っていられるが、その後では若干問題になりそうだった。再び、広く人材を求める必要が出てくるだろう。
そう思うと、思わず溜息が漏れそうになる。だがそれでも、その事は顔に出さずに、そのまま脅しをかけていく。
「そうだな。貴殿は、もう少し言葉の使い方を覚えた方がよいだろう。私も、うっかり首を切り落としたくなるかもしれないからな」
そう言って、クックッと喉の奥で笑って見せた。
「うっ、ぐっ。だ、だが、貴殿らが約定を違えたのは事実にござろう。これについては、一体どう説明されるおつもりかっ」
この季節、外に張られた天幕の中は、すこぶるよく冷える。にも関わらず、男は額にびっしりと汗の玉を浮かべ、そんなささやかな反撃を試みてきた。
やれやれ。まだそんな事を言っているから、頭の足らぬ間抜けだと言われるのだ。それでは、『私たち』には勝てない。『色々』と分かっていなさすぎる。
「いや、私たちは何一つ約定を違えてなどいないだろう?」
「は? 何をおっしゃられるかっ。現に、貴殿らは戦場に姿を見せなかったではないかっ!」
淡々と語る私の口調に煽られて、男は再び吠えた。本当に、色々と駄目すぎる。
「うむ。確かに、我々は行かなかった」
「そうでござろうっ」
男は、私の言葉にようやく話が通じたとでも思ったのだろう。目に見えて安堵していた。
だがしかし、それを見届けて、私は話をひっくり返す。
「が、何故それが、貴殿らとの約定を違えた事になるのだ? 私には、それが理解できない」
「なっ。何をおっしゃるのかっ。三日前に、私自身がここにやってきて、大将――川島朝矩様からの布告は読み上げさせてもらった。貴殿もそれを聞き、受けていたではないかっ。それを、知らぬとでも言われるおつもりかっ!」
男は再び逆上しかけながらも今度は何とか堪えて、慌てて早口でそう申し立ててくる。
私はそれを聞き、いま気がついたとばかりの態度で、笑いながら応えてやった。
「はっはっは。なんだ。そういう事か。どうも話が合わないと思っていたのだ」
「はあっ?」
突然笑い出した私に、使者の男は混乱を極めていた。視線の落ち着きがないから、はっきりと分かる。こちらの思うままに、手の平の上で踊ってくれている。
そんな男に、私ははっきりと告げる。
「私は受けてなどいない」
「なっ!? 貴殿は、あの日『分かった』とはっきりおっしゃったではないかっ!」
「私は貴殿の話を黙って聞いていただけだ。そして、その話を聞いて、『話は』分かったと言ったのだ。どこかおかしな所でもあるか?」
そして私は、男の心情を更に逆なでするように、クックッと再び笑ってみせた。
以前武殿に、いつもいつもどうやって相手を意のままに動かしているのかと尋ねたら、『状況ごとで違うし、やり方も色々あるが……』と前置きをして、『まず自分を保て。そして相手が隙を見せるまで、上下左右に振り回せ。そして隙が出来たら、迷わずそこを突けば良い』と言っていた。『そんな大した事じゃない。結構簡単だろ?』と武殿は笑っていたが、正直、それを簡単だと思うのは彼だけだろう。自信を持って言えるが、常人にはすこぶる難度が高い。
だが今回私は、彼と同じ場所に辿り着きたくて努力してみた。そしてその結果、存外上手くいっている。それが少々嬉しかった。
私の言葉に、男は顔色を赤から白へと変えた。釣れたらしい。
「な、なんという……。貴殿は恥というものを知らぬのかっ!」