第二百二話 雪の降る夜 でござる
日々の仕事に追われ、時間はあっという間に過ぎていった。戦の準備は大した問題もなく、概ね順調に進んでいる。
俺の担当分だと、すでに侵攻計画は作り終わり、最後に御用部屋での確認を残すだけになっていた。戦とは関係ないが、館の警備計画の見直しも終わっている。見つかった警備の穴は塞げていると思う。あとは実際に行ってみて、問題ないかどうかを検証する作業に入るのみだ。
三浦・徳田も狙い通りに釣れた。四日前に徳田領から、二日前に三浦領から、それぞれの領に放った者たちより報告が届いている。徳田は兵をかき集め出し、三浦は『打って出た』そうだ。それぞれの領の継直領との国境で、商人に化けたうちの手の者が流した噂に引っかかった格好だ。
まず順調と言って差し支えない状況と言えるだろう。
二水の方もぼちぼちと進んでいる。
太助や吉次はひいひい言いながら盛大に文句を言っていたが、それぞれの報告を聞いている限り、それなりの手応えはあるようだ。
しかしながら、一番苦労したのは八雲だったと思われる。文句は一番少なかったが。
一言だけ言った文句は「本っ当に、あちこち探し回ったんですよっ?」と涙目になって訴えるものであり、ぶちゃぶちゃと報告の間中文句を言い散らかした他の二人よりもずっと胸に来るものがあった。ぶっちゃけ、思わず「すまんかった」と言ってしまった程である。
それ程に大変だったらしいのだが、八雲は頑張ってくれたようだ。繁殖を重ねられるように、牛と鶏のつがいを何組もきっちり揃えきったらしい。ともすれば女に見えるほどの優しげな風貌なのだが、すばらしいクソ根性の持ち主のようだ。
信吾らの後輩になる『新・馬鹿三人衆』だが、その能力は先輩たちに負けず劣らず優秀である。今後が実に楽しみな三人だった。
もちろん順調なのは俺だけではない。と言うか、好調一番手はおそらく爺さんだろう。少なくとも俺以上だった。
何故かよく分からない朽木の様子見のおかげで、攻め込まれる前にきっちり国境の防御態勢を整えきった爺さんは、その勢いを緩める事なく兵站の構築、物資の準備に入り、それと同時に兵の追加募集を行った。
そして、これがびっくりする程の成果を出したのである。
新規の兵だけで、今現在の数字で二千強は集まっている。この分だと、粘れば三千の声を聞く事も出来そうな勢いだ。
元々の兵が二千強いるから、合わせると全部で五、六千になる。
まあもっとも、年齢や体力の問題で、本当に戦闘に使えるのは集まったうちの六、七割といった所だろう。しかし、それでも十分驚異的な数字である。それに戦闘に使えなくても、後方支援や工作兵など使い道はあるのだ。だから俺たち将の采配次第では、この集まった人数を正味使う事が出来るのである。
今はそれぞれの適正に合わせて、その集まった者たちを訓練している。少しでも『軍』に『兵』にするべく、信吾ら部将らが必死になって調練をつけている。きっと、それなりには仕上がる筈だ。
それにしても、だ。これは本当に驚異的な数字を叩き出してくれたものである。
うちの領土は、まだ決して大きくはない。それなのにこの数字というのは、異常と言っても過言ではない。本来なら強制動員をかけてやっとという数字だ。
爺さんは、
「伏龍・鳳雛の勇名も大したものに育ったものだ。おかげで、時を逃してはならんと、みな一旗揚げに出て来たようだぞ。はっはっはっ」
などと悪戯が成功した子供のような顔をして笑っていたが、賭けて絶対にそれだけではない。
最大の理由は、『永倉平八郎が募兵したから』だろう。これに尽きる。
長年水島を支え民を守ってきた宿将の募兵だからこそ、民も乗ってくれたのだ。俺たちの名は、その上に乗ったおまけに過ぎない。
まあ何にせよ、そんな感じで、爺さんは募兵で驚異的な成果を叩き出していたのである。これは、今の俺たちの順調さを象徴するような出来事だった。
そして、あと残っているのは…………。
「…………」
陽が暮れてしばらく経った頃、自室での仕事を小休止し雪のちらつく庭を眺めながら思いふける。
雪……。そろそろ冬。いよいよか、と。
あとは伝七郎が霧賀から戻ってくるのを待つばかりであった。伝七郎は、霧賀とは同盟の方向で話を進めると言っていた。もちろん話次第ではあろう。だが少なくとも、伝七郎はその方向から攻めるつもりのようだ。
その為の会合を設ける事を水島・霧賀の両家は合意し、互いの国境にある寺で会う為に、いま出ている。
別に話は纏まらなくてもいい。
俺は先の御用会議でそう言った。
が、しかしだ。纏まるに越した事はない。この乱世、同盟を結んだからといって絶対の安全を保証される訳ではないが、それでも公式に盟を結ぶのと結ばないのとではその確度は天と地である。それなりには安堵できるようになる。だから、俺としてもできれば纏まって欲しい。
さて、どうなっているか……。
そんな事を考えながら、庭に降り積もろうと次から次へと落ちてくる雪の花びらを目で追い続けていた。
すると後ろから、そっと上着が掛けられた。
俺は首だけで振り向く。
「外は寒うございます。お体を壊されては大変ですよ?」
菊が、そう言って優しく微笑んだ。
「ああ、有り難う」
祭りの夜から一ヶ月ちょっと経とうとしている。
その間にも色々とあったが、少しでも沢山二人でいる時間を作れるようにと工夫をして会い、互いへの想いを育んできた。もうほとんど必要なくなってきているが、今も菊は、こうして俺の秘書官を続けてくれている。俺としても、彼女ならば機密保持の面で絶対の信頼ができるという理由もあり、ついついその厚意に甘えてしまっていた。
そんな努力の成果として、俺はようやく菊を前に彼女を呼び捨てにしても照れる事はなくなった。また、どこか気が引けて、自分でも感じていた不自然さもなくなってきていた。
でもこれは、俺たちの成果ではなくて爺さんのおかげかもしれない。
ある日たまたま爺さんも菊もいる場で、彼女を呼ぼうとして困った事があったのだ。
菊は俺が口ごもったのを見て哀しそうな顔をするし、目の前で爺さんは”お前は何しとるんだ?”というような顔をしてるしで、あの時は往生した。俺は結局、いつも通りに彼女を『菊』と呼んだ。あの時の菊の嬉しそうな顔は忘れられない。
それまで、まだどこかにあった迷いが断ち切れた一瞬だったと思う。
当の爺さんだが、娘を目の前で『菊』と呼び捨てた俺に対し何も言わなかった。何事もなく、そのまま普通に話し続けた。そして、その場を離れる時に、無言で二つほどポンポンと俺の肩を叩いていったのである。
俺がこの時どれ程安堵した事か。今以て言葉が見つからない。
なんにせよ、それ以降俺は、菊を呼び捨てる事に後ろめたさを感じる事はなくなった。より一層、自分の気持ちに正直になれるようにもなったと思う。
そして菊という恋人が出来たせいだろうか、他の女の子を見ていても前のように『飢え』を感じる事もなくなった。男として健全な助平根性こそきちんと沸き立つものの、なんとしても手に入れたいというような衝動を感じる事はなくなったのである。
多分、菊が一生懸命尽くしてくれるせいだろう。
俺の中の獣は、お腹いっぱいになって満足してしまっていた。
まだ致してはいない訳だが。
でも俺自身不思議でならないのだが、やせ我慢ではなく、本当に満足してしまっていた。
もちろん菊を抱きたいと思っている。そしておそらく、俺が望めば応えてくれるだろう。
でもなんと言うか、森羅万象なぎ倒して無理にでも早く致してしまおうという気にはなれなかった。決して、ナニが使い物にならなくなっているとかそんな事はない。俺の相棒は毎朝元気である。美人揃いの千賀の侍女軍団を見れば、それなりにムクリムクリと助平心も生まれる。だから、我が事ながら、今の自分の気持ちがよく分からないでいた。
まあそんな訳で、未だ健全な関係を保ってはいるものの、それでもそれなりに二人の仲は進展していた。
「そんなに気になりますか?」
「そりゃあ、もちろん。今やっている事で、失敗していい事なんて一つもないからね。今は、俺たち水島にとって本当に正念場だ。ここをどう乗り切るかで、千賀にどんな水島を渡してやれるのかがほぼ決まる。気にせずにはいられないよ」
俺がそう答えると、菊は静かに身を寄せて俺の肩に頬を当てた。そして、言う。
「貴方ならば、どんな事でも成し遂げられます。貴方はとても強い。心が強い。絶対に何人にも負けません」
「随分と買ってくれてるね」
「勿論です」
俺が茶化すと、菊はスッと半歩ほど俺から離れた。心外だとばかりにプッと小さく頬を膨らめる。
最近気がついたのだが、どうもこれは菊の癖らしい。千賀もよくやるので二人ともそっくりだとは思っていたのだが、こちらがオリジナルのようだ。
俺が困ったように頭を掻くと、菊は怒った演技を解いて胸を張った。
「富山からこちらへと逃げている時に、貴方にお会いしました。そしてそれ以降はずっとお側で見てまいりました。私、これでも人を見る目には自信があるんですよ?」
「そっか。じゃあ、その言葉が嘘にならないように、俺ももっと頑張らないとね」
菊の仕草が可愛くて、思わず顔が笑みを作る。
でも菊は、俺のその言葉に複雑な表情を浮かべた。微笑んでいるのだが、その表情が微妙に暗い。悩ましげに影が差しているのである。
「……あまり無理はしないで下さいね。貴方は一人しかおりません。私にとっても、姫様にとっても、そしてこの水島家にとっても。貴方の代わりなど誰にも務まりません。ご自愛下さい……」
囁くように、呟くように、彼女は言う。言いながらも、それは無理だと分かっているのだろう。
だから俺も、その言葉には逆らわない。
「有り難う。ま、俺も死にたくはないからね。程ほどにやってくる」
「とても、そうは見えませんよ」
菊はそう言って、苦しそうに笑った。
ああ、これはいかんね。
「そっか。ごめん。分かった。ちゃんと気をつけるから、な?」
俺はそう言って菊の方へと振り向くと、その体をそっと抱きしめる。相も変わらず柔らかくて、いい匂いがした。
菊も静かに目を閉じて、俺の胸にしな垂れかかるように体を預けてくる。
俺はそんな菊の顎下にそっと指先を当てると、軽く持ち上げキスをした。菊も全く抗わなかった。
しばらくして菊を自由にしてやる。すると彼女は目を開いて、
「……絶対ですよ?」
と確認するように上目遣いで言った。
「うん。絶対」
俺はまだ不安そうな菊にニッコリ笑いかけ、『嘘』を言う。今の状況で、命の危険がないように振る舞う事など出来る訳がない。戦場に出れば命を奪うか奪われるかの二つに一つなのだ。
でも、俺はそう答えた。嘘でもそう答えなくてはいけないと思ったからだ。
俺のその言葉が嘘だと、菊も分かっているだろう。菊は武家の娘なのだから。戦場に出る爺さんの背中、それを送り出す母親の姿を見て育っているのだ。
菊は寂しそうに微笑むだけで、それ以上は何も言わない。俺が『分かった』としか答えられないのを理解しているのだと思う。
だから俺は、
「戻ってきたら、菊をくれと言いに爺さんの所に行こうと思っている」
とだけ伝えた。菊は目を丸く見開いた。が、彼女が何かを言う前に、俺はもう一度強く抱きしめた。そして、唇を塞ぐ。今度は先程よりも少しだけ乱暴に。
抱きしめた体を解放してやると、菊は俺の手を両手で握りしめる。そして、
「お帰りをお待ちしています」
と一言だけを俺に告げた。
そして、その二日後――――
『霧賀との同盟に成功せり』という朗報を携えて、伝七郎が藤ヶ崎の館へと戻ってきた。