第百九十九話 つかの間の休息 でござる
そのあと千賀は、それはそれは真面目に菊の手解きを受けている。完っ全に、パーフェクトにっ、フィッシュオンである。見事、餌に釣られてござった。
それにしても……。
ふわ~ぁ。
眠い。
昨夜は全く眠れんかったからなあ。伝七郎や爺さんの説得も終わって、気が抜けちまったかな。
『つもり』だけなら気を張り続けているのだが。この如何ともしがたい眠気は、一つ大仕事が済んで安堵したせいだろうか。
それに今日は、そろそろ晩秋に向かおうとしている時期であるにも関わらず、妙に暖かい。
合わせ技、一本である。油断をすると、トロトロと眠りの世界に誘われる。眠れはしなかったが。
何せ――――
「たけるっ! ねちゃだめじゃぞ! お話ししてくれるお約束じゃぞっ!」
と、熱心な見張り番もいる訳で。
俺がウトウトする度、それを見つけた千賀が、必死に叫び声を上げる。
「ん~? ふわぁ~。わーってる、わーってる。寝てないよ?」
「本当じゃな?」
「んー、ほんと、ほんと」
俺の適当な返事に、大人しくお習字に戻っていく。とりあえずでも、反応がある事に安心するようだ。もう、何度か同じ事を繰り返していた。
そして、どうにかこうにか今日の習字のお勉強は終わったようだ。菊が、「はい。今日はここまでです、姫様」と告げた。
すると千賀は、すぐに俺に飛びかかってきた。俺が目を閉じていたせいだ。
「ねちゃダメなのじゃーっ!」
速かった。
菊の終わりの声を聞くのと、ほぼ同時に飛びかかって来たらしい。俺の両肩をグワシッと掴むと、激しく揺すりだした。
お? おー。
正味、本当に眠りかけていた脳みそが一瞬でウェイクアップする。半ぼやけになりかけていた意識が戻ってきた。
が、まだ目を開かない。
勿体ないからな。千賀の奴、必死すぎ。笑える。ぶっちゃけ、もうちょっと楽しみたい。
「おーきーるーのーじゃー」
なおも激しく揺すってくる。
菊はそんな俺の様子に気がついているようで、薄目を開けてニマニマしている俺を見ると、『困った人ね』と言わんばかりの表情で苦笑いをしていた。それでも黙って見ている辺り、流石によく分かっていらっしゃる。
「たぁーけぇーるぅーっ!」
千賀が吠える。
頃合いを見て、俺は目を開いた。
「お、おう。寝てないぞ?」
俺の言葉に、千賀はぷうぅと頬を膨らめるものの、安堵が上回ったのかすぐにフゥッと小さな丸い息を吐いた。そして、言う。
「たけるはすぐにウソをつくのじゃ。ウソはメッなのじゃぞ?」
千賀は真剣だった。
あらら、お説教をされてしまったか。
思わず噴きそうになったが、そこはグッと堪える。その通り。嘘はいけない。
「そうだな。うん、千賀の言う事が正しい。嘘はいけない。だから俺も、約束はちゃんと守るぞ?」
俺はそう言って、千賀の頭を撫でてやった。
が、である。いつもなら嬉しそうに目を細めるのだが、今日の千賀はいつもとちょっと違った。
「……ほんとうかや?」
おぅ……。
やぶにらみなさっておられる。どうやら、からかいすぎたようだ。というか、こと千賀とのお約束に限っては、俺の信用は完全に地に堕ちているようである。
まあ、仕方がない。例の『美味しい物』の約束だって、散々遅れてやっと果たしたばかりという体たらくだ。負の実績がありすぎる。
だがそれでも、俺はこう言わねばなるまい。
「もちろん本当だとも」
俺は胸を張って答えた。こちらにやって来てからというものの、面の皮がずいぶんと厚く丈夫になったような気がする。
職業病だろうな。
そんな自虐的な事を考えながら、俺はスックと立ち上がる。そして、そのまま外廊下へと場所を移動した。
千賀は急に立ち上がった俺をぽかんとした顔で見上げていたが、俺が部屋を出て行こうとしたので慌てた。
「たける、たけるっ。どこ行くのじゃっ」
叫びなさった。
「どこも行かないよ。廊下だ、千賀。今日は日差しも暖かい。部屋の奥で引き籠もっているのは勿体ないぞ? お日様を浴びながら、お話をしようか」
俺はそう言いながら、侍女の一人が開けてくれた障子の向こうまで歩いていく。目の前には、陽の光がさんさんと降り注ぐ庭があった。そして廊下に出たところで、振り向いて胡座をかく。その後、おいでおいでと千賀を手招いた。
千賀が駆け寄ってきて俺の横に腰を下ろした辺りで、菊たち侍女衆は千賀の部屋から出て行った。それぞれに次の仕事があるのだろう。
だが婆さんまでもが、
「ちょっと席を外す。姫様の事をくれぐれも頼むぞ、小僧」
と俺に言い含めて行ってしまったのには、ちょっと驚いた。確かにまだ二人ほど残ってはいるが、その他には千賀と俺だけである。
随分と信頼されるようになったものだと、感慨深い。
そりゃあそうだ。今更言うまでもなく、千賀はここの皆の宝だ。まさに唯一無二の玉である。
そんな大事な物を預けてくれるのだ。相当な事と言えよう。
俺もようやく、本当の意味で水島の人間として認められた――と、そう思えた。
少々気恥ずかしいが、やはり素直に嬉しい。自分の口元が、かすかに緩むのを感じた。
――――が、
「……けるっ。たーけーるーっ!」
幼女の叫び声で、情緒ぶち壊しである。
放っておかれてお冠のようだ。俺の膝を、ビシャンビシャンとちっこい手で叩いておられる。
痛ぇーよ。
そんな千賀の頭に手をやって、ワシワシっと撫でてやる。そして、
「分かってる、分かってるって。落ち着け千賀。待てだ、待て」
と応えてやった。まるでワンコを躾る時みたくなってしまったのは、千賀の勢いが餌を見た時の子ワンコみたいだったからだ。だが、
「もうたくさん待ったのじゃっ。はよう、お話ししてたもうっ」
と俺の顔を見上げて、なおの催促。
ちくしょう、聞いちゃいねぇ。
なんか今日は敗戦続きである。あさ菊に負け、いま千賀に敗れ……俺は心の中で、ひっそりと涙した。
だが、俺は強い子である。すぐに気持ちを切り替える。お約束はお約束だ。
ふう。それにしても、今日の日差しは本当に気持ちがいい。暖かい。
俺はそう思いながら、その場に寝転がった。もちろん二人で日光浴をしながらお話しをしようと思った訳だが、何を勘違いしたのか千賀が再び騒ぎ始めた。
「だーめーなーのじゃーっっ。お話しなのじゃっ」
千賀は、寝っ転がった俺の上に跨がる。そして俺の襟元をちっこい両手で掴むと、必死の形相で再び揺すり始めた。その顔は真剣そのものである。
「おーきーるーのじゃーっ」
もう、からかう気はない。流石に、これ以上は可哀想だ。
だから、すぐにその勘違いを解いてやる事にした。
「待て待て、千賀」
つか、ここに婆さんがいなくて本当に良かった。男に馬乗りになって胸ぐらを掴む姫様とか、勇ましすぎる。見られていたら、間違いなく俺は小一時間のお説教コースだっただろう。
そう思いながら、俺は一旦体を起こす。そして千賀の尻に手を回して抱き上げてやると、そのままその場に寝かせてやった。そして自分も再び寝転がり、千賀の頭の上に腕を放り出す。
「俺の腕を枕にしてみ? 気持ちいーぞ。今日はよく晴れているし、日差しも気持ちいいからな」
廊下の板は流石に少し冷たいが、日差しが本当に気持ちいい。
「……お話はなしかや?」
すごく哀しそうな目で、俺を見ながら言う。ただそれでも、千賀は寝転がったままズリズリとずり上がって来て、俺の腕を枕にちょこんと収まった。
ぷっ。
俺はとうとう我慢できずに吹き出した。どうやら千賀は、本当に俺のする適当な作り話が好きなようだ。
俺は再度千賀の頭を撫でてやりながら、笑いかけてやる。そして俺は、
「うんにゃ。ちゃんとしてやるぞ。お約束だからな。じゃあ、そうだな、今日はこれからにしようか。昔々――――」
と頭の中のネタ帳をめくり、千賀が喜びそうな話を作って話していった。