第百九十八話 なんか変なのじゃ でござる
御用部屋での会議が終わった後、『お話』をしてやりに俺は千賀の部屋へと向かう。
そろそろ習字が終わる頃合いだ。
そう思って千賀の部屋へと向かったのだが、着いた瞬間失敗したと悟る。
微妙にまだ終わっていなかったのだ。そして案の定、千賀は俺の顔を見るなりパッと表情を明るくし、昨日のお祭りの話をし始めた。
菊、ごめん。
とりあえず千賀を机の前に座らせ直し、その正面に座っている菊に目で詫びる。菊は、仕方がありませんねとばかりの苦笑いを浮かべた。婆さんは部屋の奥の定席に座って、千賀のその様子に軽く溜息を吐いたりしているし、侍女衆らもまた、それぞれの場所でくすくすと忍び笑いを漏らしている。
とは言え、とりあえずは話を聞かない事には再び習字に集中してくれそうもなく、いつもならば俺の机が並べられている千賀の机のすぐ横に、俺も腰を下ろす。
千賀の興奮は収まらない。ひたすら、どう楽しかったのかをまくしたてている。
どうやら、『白いふわふわ』にご執心のようだ。まん丸ほっぺに両手を当てながら、
「とーっても、あまあまだったのじゃ。……のう、たける。また作ってたも?」
などと愛想を振りまいて、懸命におねだりしてくる。
むう。段々とテクニックを使う様になってきやがったな、この女童が。
あざとい。あざといが、やはり可愛らしい。
俺のツボを良く心得た攻めだった。また、そのうち作ってやろう。そう思う。
こちらでは超高価な材料を使うし、何より糖分とらせすぎてもいけないので毎日という訳にはいかない。しかし今回、技術的な問題はクリアできている。よって、作る事自体は全然難しくない。
だから俺は、
「ちゃんとお利口にしていたら、またそのうち作ってやろう。とりあえず、今はお習字をきちんとやらないとな?」
などと言ってやった。いつもいつも菊に世話になってばかりなので、たまにはこちらからアシストを、とまあ、そういう訳だ。
俺は菊に、ニッと笑ってその意思を伝える。菊も微かな笑みを浮かべて、それに応えてくれた。
千賀は、全力でおねだりしたのにお預けをくらった格好で、不満そうにプーッとほっぺを膨らませた。そして、最近覚えた俺への対抗手段――菊に言いつける――を行使しようとしたらしく、彼女の方を振り向く。
すると我らが主様は、菊の顔を見てちっこい眉根に皺を寄せた。次に俺の方へと振り向き、じっと見つめる。
小首を傾げた。
「なんか変なのじゃ」
そして、そうおっしゃられた。
むうう。
俺は思わず唸る。
このチビ、相変わらずなかなかに鋭い。俺と菊の間の空気が、微妙に変わった事を察したらしい。
菊は、別段おかしな様子を見せていた訳ではない。ほぼいつも通りだったと思う。強いて言えば、今までよりも更に、俺に対する雰囲気が柔らかくなっていたという程度だ。
だが千賀は、菊の顔を見てなんの疑いもなく、すぐに『俺』の方を見た。げに恐ろしきは、幼女の勘である。
で、だ。そんな事になれば、当然話はそこで終わらない。
千賀の奴があまりにも遠慮がないもんだから、俺にとっては大変困った事に、菊の頬がかすかに染まりだした。
THE・エーンドである。それではゲロったに等しいぞ、菊。
おかげで、部屋の中の空気がおかしな事になってしまった。
まず速攻で、部屋にいる侍女たちの視線が、朝方これでもかとばかりに浴びた生暖かいそれへと変わる。コソコソと隣の者と耳打ちをし合い、キャッなんて黄色い声があがったりもした。
それにしても不思議で仕方がない。朝方も……というか、いつも思うのだが、俺と菊の間に何かがあると、翌日の朝には侍女・下女の皆さんがすでに知っているのは何故だろうか。
いや、もう理由は分かっているが。でも、何故だと問わずにはいられない。
つか、キス一つでここまで大事にならなくてもいいのではなかろうか。確かに、俺的にも一大事ではあった。しかし、ここまで大々的に皆様に楽しんで頂くほどの事ではないと思うのだ。
この情報網は、一体どうなっているのだろう。
これでは、もし仮に菊を泣かせようものなら大変な事になりそうだ。最低でも、侍女・下女衆全員を敵に回す事になるのは確実と思われる。
まさに、恐るべし、だ。
ま、いいけどね。泣かす気なんかないし。
とは言え、皆さんの玩具になっているのは間違いなく事実なので、その現状を嘆く事くらいは許していただきたい。ヤレヤレとばかりに溜息を吐いている婆様のジト目が、一番落ち着く。それが、この異常事態を如実に物語っている。
しかしまあ、なんぼグチグチと心の中で愚痴ったところで否定する気もなく(そんな事をしたら菊が傷つくじゃないか。出来る訳なかろう)、現状を甘んじて受け入れるしかない訳であり……。
結局、いつも通りに『諦めよう』で落ち着く。何事も、諦めが肝心という事なのだろうか。そして、俺がそんな諦観にどっぷりと漬かって乾いた笑いを漏らしている間も、千賀は元気だった。これも、いつも通りの事だ。
落ち着きなく千賀は、俺と菊の顔をきょろきょろ見比べては首を傾げている。
子供というものは残酷だ。分かっていないだけに、本当に遠慮がない。
いつもなら、ここら辺りで菊が、
『はいはい、姫様。まだお習字が終わっていませんよ』
などと助け船を出してくれる所である。しかし今回は、その本人が対象となっており、照れて肩をすぼめてしまっている。とても、そんな余裕はなさそうだ。
ここはやはり、俺が何とかするしかない。
よし。
「あー、ゴホン。千賀?」
すると、ようやく反応してくれたとばかりに、菊の顔を見ていた千賀が、こちらを振り向いた。
「なんじゃ?」
「ん? いや、な。これから俺は、しばらくの間ちょっと忙しくなる。だから、ここにお話をしには来れなくなるんだ」
どの道、伝えておかないといけない話である。だから、それで千賀の目先も変えてやろうと試みてみたのだ。
俺がそう言うと、千賀は哀しそうな顔をして意気消沈した。まるでこの世の終わりを告げられたかのようだった。
ただ千賀は、『忙しくなる』という部分も、ちゃんと聞いてくれていたらしい。我が儘を言う事もなく、
「……忙しくなるのかや」
と寂しそうに呟いただけだった。
普段は我が儘一杯のくせに、ホントこういう所では妙に聞き分けが良い。不憫な子である。
だから、しばらくの間来られなくなるのはどうにもならないが、それを埋め合わせる事も忘れない。
「その変わり、だ。今日は、いつもより沢山お話をしよう。どうだ?」
すると千賀は一転、
「本当かやっ」
と曇った顔を、パッと明るくした。
よかった。なんとかお気に召してもらえたようである。
ただその一方で菊は、俺の言葉の意味に気がついたらしく、先程までの照れながらもどこか幸せそうにしていた表情を、千賀とは逆に曇らせた。
それには俺も、すぐ気がついた。しかしそこは、もうどうしようもないので、今は見なかった事にする。そして、千賀に明るく答える。『大丈夫だよ』と菊に目で伝えながら。
「もちろん」
「やったのじゃーっ!」
千賀は両手を天に突き上げながら、喜びを小さな体一杯に表現した。菊も、俺の送った視線の意味を汲み取ってくれたようで、いくらかの無理をしている感じはしたものの、武家の女らしい強さで微笑んでくれた。
その笑みは、いつも俺に向けてくれるものと違って、どこか痛々しい笑みだった。本当なら心からの笑顔を見ていたい。しかし今、彼女にそれを要求するのは酷だろう。
その一方で、無邪気に喜んでいる千賀。すでに、先程まで首を傾げていた違和感の事など、銀河の彼方に飛んでいってしまっているようである。
ま、それでいいんだけどね。
俺は笑いを堪えながら、
「よし。んじゃ、今日のお習字だけはちゃっちゃと終わらせんさい。待ってるから」
と、そう言って、組んで座っていた足を放り投げた。