第百九十二話 菊の本気 でござる
障子の向こうがうっすらと明るくなってきた。
朝である。
まあ、なんというか、まったく眠れんかった。寝る前の刺激が強すぎた。目がギンギンに冴えてしまって、眠れる気配すらなかった。
未だに、昨夜の柔らかくしっとりとした感触が甦ってくる。
そして、喜びと共に思うのである。ああ……勢いに任せてやらかしてしまったと。
幸いな事に、お菊さん自身はそれを望んでくれていた。
それ故に、最後の理性を総動員して、行くところまで行くのを回避したのは僥倖だったと思う。昨日のお菊さんの様子だと、もし俺が望んでいたら、行き着くところまで受け入れてくれていた可能性が否定できない。
そうしたら、どうなっていただろうか。
ここは現代日本ではない。彼女はお姫様……。確実にヤバい事になっていただろう。
ここでは、彼女のような所謂お姫様クラスだと結婚すらも自分の意思では出来ない。そういう世界だ。家長の意ですべてが決まる。
となると、その家長の承諾なく俺が軽々な行動をした場合、確実にその家長の顔に泥を塗る事になる。つまり、爺さんの顔に泥を塗るという事だ。
とは言えあの爺さんの事、そうなったとしても斜め上の反応をする可能性もあるが。
まあいずれにせよ、くちさがない人々からは爺さんが笑われる事にはなっただろう。それを避けられたのは、純粋に良かった。もっとも仮に手を出してしまっていたとしても、説教の一つでもぶちかまされて最終的には許してもらえたとは思うが。
着替える事なくそのまま布団の上で転がりながら、着崩れた着物を直しつつ、そんな事を思う。
何にせよ、余計な問題は起こさずに済んでよかった。昨夜の俺のテンションはヤバかった。突っ走ってしまっていても何も不思議ではなかったくらいだ。
冷静になって考えてみると、背中に冷たい汗が走る。
うん。ヤバかったなんてもんじゃないね、俺。
そうして、今更ながらに戦いていたりする。
すると廊下側の襖の向こうで、いつも通りに俺の朝食を持ってきてくれたのだろうお菊さんの気配がした。
「武殿? 起きておられますか?」
いつも通りに耳心地の良い涼やかな声だ。
「お菊さん? 大丈夫。起きているよ」
俺はいつも通りに答えた。
しかし、なぜか襖が開かれない。いつもなら、すぐにスッと襖が開き、朝一から美人を楽しむ事ができるのだが……。
俺がアレ? と思っていると、そう間を置く事もなく襖は開かれた。
……のだが、やはり何かおかしい。いつもは優しげに微笑んでくれるその顔が、今日は無理やり澄し顔を作っているかのように見える。まあ、それでも美人は美人だったが。
とは言え、あきらかにこれはおかしい。先程呼びかけてきた声の調子はいつも通りだったのに、これはどうした事なのか……。
図りかねた。
でもとりあえず、
「お、おは……よ?」
と挨拶をしてみる。
昨夜は彼女が部屋を去ったその時まで、まったく何も問題はなかった筈だ。自分で言うのも何だが、あれだけ甘々な二人の世界に閉じこもっていたのだ。彼女がこんな風になる問題は、何も起きていない。
俺が混乱している間も、彼女は黙ったまま黙々と俺の朝食の準備をしてくれた。今日の朝飯は、玄米粥に香の物、味噌汁に、山菜の煮物みたいだ。それに、白湯。俺が寝起きの喉を潤す為に欲しがるので、いつも通りに用意してくれてある。
膳を準備し終わると、彼女はその脇に控えた。俺も用意して貰った膳の前に座る。
が、お菊さんは何故か上目遣いでじっと俺の目を見つめてきた。心なしか、小さく唇をとがらしているような気がしないでもない。
どういう事だ? 今まで、一度もこんな事はなかったぞ。昨夜から今の……いや違うな。俺の部屋に入る前から、今までの間に一体何があったというのか。どう考えても、俺は何もしていない。いつも通りだった筈だ。
困惑は深まるばかりだ。
そんな俺をお菊さんは、しばらくの間じっと眺めていたが、どうして分からないのかと言わんばかりの呆れ顔で、とうとう小さく溜息を吐いた。
どゆこと?
どうやら原因は俺らしい。それは分かった。が、肝心のその理由が俺にはさっぱり分からない。
グビリ。
喉が鳴る。俺は目の前の膳に乗っている白湯の入った碗を手に取った。いつも以上に喉がカラカラだった。
そんな俺の様子に、お菊さんは一転、朝から抱きしめたくなるような笑顔になった。そして、言い放ったのである。
「『お前さま』、お早うございます」
「ぶっ」
口に含んだ湯を盛大に噴く事になった。
「お、お前さま?」
「はい。何かおかしいですか?」
「い、いや、別におかしくはないけどね……」
おかしいわ。
自分の言葉に、胸の内で即座のツッコミを入れる。
『お前さま』。
一般的には目上に対して使う言葉だ。
だから、そういう意味ではまったくおかしいという訳でもない。確かに俺の地位は、彼女よりは上なのだから。だが永倉平八郎の娘である彼女が、俺に対して使う言葉として適切かと言うと、それは否だろう。もしそれでも、彼女がその言葉を俺に対して使う事があるとしたら……、それは『旦那様』の意で使う時が来た時だけである。
これは如何なる事ぞ……。
俺の頭は、ただいま絶賛混乱中であった。
しかしそんな俺の事など知りませぬとばかりに、お菊さんはニッコリと微笑んだままだ。そして、
「それでは、よろしいではございませんか」
などとおっしゃる。
あかん。いつもの彼女じゃない。
お菊さんは、俺が慌てているのは分かっているだろうに、まったく思い直す気配はなかった。昨日の今日で、もう少し甘々で生暖かい朝を期待していたのだが、想像以上にホットである。
彼女は何故、俺を困らせるのか。
彼女の立場的に、現段階で俺の事をそう呼ぶ事は大問題である。そして彼女も、それが分かっていない筈がない。
だから俺は、本気で困ってしまっていた。
ぶっちゃけ彼女に『お前さま』と呼ばれた時、身震いする程の高揚感も覚えた。それは事実だ。だがまだ、その幸せに漬かるには早い。常識何それおいしいのの武さんでも、その程度の分別はある。
俺は必死で動揺を堪える努力をしているが、その甲斐もなくしっかりと狼狽えていた。固まってしまった体が、思うように動かない。
そんな俺を見てお菊さんは、それまで作っていた微笑みを消し、ぷうっと小さく頬を膨らませて見せる。そして、言った。
「『菊』です」
「は?」
「『菊』です」
「へ?」
「『お菊さん』ではありません。そう呼んで頂けないならば、私が武殿の事を『お前さま』と呼びます」
ちょっ。
追い打ちである。機を見るに敏だった。
お菊さんは、馬鹿面を晒していたであろう俺から目を逸らし、まるで子供が拗ねるようにして、ぷいっと横を向いてしまう。全身で『知りませんっ』とアッピールしておられる。
……なんてこった。
俺に呼び捨てで呼べと? お菊さんに今『お前さま』と呼ばれるのは論外だが、それはそれで問題がありませんか? 男連中とは訳が違うんだぞ。理由がついて回る……って、まさかそういう事なのか?
要はきっちり権利を主張してくれと……そうおっしゃる?
グビリ――――
再び喉が鳴った。
あ、あのー、昨日の今日でそれは、いくらなんでも性急すぎやしないでしょうか。いや、この神森武。その事自体には、まったく異論はございませんよ? ただちょっとばかり、生き急ぎすぎてはいないかと……はい。ええ、ほんの少し。ほんの少しだけ、そう思ったり、思わなかったり……。
お菊さんを説得する為の言葉を、頭の中で探し続ける俺。
でも頭の中ですら、しどろもどろになってしまい、とても彼女の考えを変えるに足りるような言葉は出てこない。
俺が言葉を失ったままお菊さんを見つめていると、彼女はすぐに逸らしていた顔をこちらに向けた。俺の目を真っ直ぐに見つめてニコリと笑う。すばらしく魅力的に。
あかん。
自信満々である。その想いに一点の曇りなしといった感じだ。
再び気持ちが昂ぶってくる。彼女を好きになってよかったと、心の底から思った。が、その喜びの強さと同じくらいに困り果てる。根本的に何も片付いていない。
俺とて彼女に心から惚れている。その気持ちに迷いはない。彼女を欲しいという想いも、気の迷いなどではなく本物だと言い切れる。
それだけに分が悪かった。そして彼女も、その事は承知しているだろう。多分、まったく疑っていないに違いない。だからこその、この表情なのだ。
非常に質が悪い。
逃げ道は完全に塞がれている。惚れた娘にこれ程思ってもらえて、その気持ちを否定する事など出来ようか。出来る訳がない。そんな事をする奴は変態である。普通は喜びを覚えるばかりだ。無論俺も、そんな異常感性の持ち主ではない。
完敗だった。
もう、なるようになれと開き直るしかなかった。
流石は俺の惚れた女だよ。お菊さ……菊の本気、見事なり――――。
俺は胸の内で、やけくそ気味にそう叫んだ。