幕 鬼灯(三) 菊姫と神森武
神森武の部屋の前まで戻り、周辺の様子が落ち着くのを待つ。
ヒュルリ――――。
岩陰に身を潜めている体を、秋の夜風が時折舐めていく。
随分と寒くなってきたな……。冬ももうすぐか。
まだ冬の風ほどに体を凍えさせはしないものの、ぷるりと体が震える程度には冷たくなってきていた。
そんな夜風に乗って届く祭り囃子は、未だ止む気配がない。その祭り囃子に耳を傾けながら、星々が煌めく夜空をぼうっと見上げる。
まだ幼い頃……。祭りの夜には、やはりこうして星空を眺めていたっけね。
ふと昔の事を思い出す。
里の秋祭りは、神森武がやっていたような楽しげなものではなかったが、やはり子供の自分にとっては辛い修行の日々を忘れられる特別な日であった。特別な何かがあった訳ではない。粗末ながらもいつもより少し豪勢な食事を摂り、大人たちは火を囲んで酒を呑み、もたらされた恵みに感謝する。そんな日であった。
当時は、そんな世界しか知らなかったから、それでも幸せだった。知らないという事は、他所から見ると不幸かもしれないが、ある意味幸福な事でもあるのだ。
当時の自分の純真無垢さが愛おしくて、思わず苦笑いが漏れる。
今も当時の私と同じ年頃の子らが、次代を担うべく頑張っている。当時の私と同じように、世の中すべてがこんなものだと信じきって、何も知らないままに。
ま、間違っちゃあいないがね。
生きていられるってのは、それだけで幸せだ。
外に出て、もっとずっと恵まれた世界を見た一方で、その事もまた思い知る事になった。
あまりにも暇すぎて、つい感傷に浸ってしまう。
が、行き着く結論はいつもと同じだった。私たちは、まず生き延びる事――それに全力を尽くさねばならない。
それからも、そんなぼんやりとした時間をしばらく過ごした。
ここを警護していた見回りの者たちも、やはり紅葉を探すのに駆り出されているようだ。
本来ここは警備の厚い区画なのだが、今日に限っては本当に人影がほとんどない。忘れた頃に見回りがやってくる程度である。
だから、それだけを警戒していれば良かった。
とても楽だ。
敵地のど真ん中でこれはどうなのだろうとは思うが、つかの間の休息を取った気分である。久しぶりに、難しい事を何も考えずに時間を過ごした気がする。
ずっと祭り囃子に耳を傾けていた。
しかし、その祭り囃子も止んだ。どうやら、終わったらしい。
結局、見回りに見つけられて以降は残った意味がなかった。自嘲の笑みが漏れる。結果論ではあるが、そうとしか言いようがなかった。
祭り囃子が止んだ後も、私はなおもジッと隠れ続ける。完全に人が寝静まるまでは、このままでいるつもりだ。
今はまだ、人が動いている。動けばそれだけ危険を伴う。しかし今、そんな危険を冒す必要はまったくない。だからだ。
人の気配もほとんどなく、音までもが失われた深夜の庭に、私は潜み続けた。
するとしばらくして、神森武の部屋に人の気配を感じた。そちらに目をやると、その直後に、閉じられた障子の向こうでポウッと薄明かりが灯る。
どうやら帰ってきたらしい。
幸か不幸か、今になって今日の目的の人物が目の前に現れた。もっとも、見たかった祭りの出し物については十分見る事は出来なかったし、今部屋に一人でいる神森武を眺めていても仕方がない事ではあったが。
まあ、それでも何もないよりは……ね。
気を取り直す。
ただ、動くのは止めて、この場でしばらく様子を見る事にした。
今から館の天井裏へと忍び込む危険を冒す理由がなかったからだ。やろうと思えばやれなくもないが、今の私には危険を押してそれをやる理由がない。
だから、時折障子に映る人影を眺めながら、今まで同様に気配を殺し、岩陰に潜み続ける事にしたのだ。館の外廊下を回っている見回りを警戒して隠れた場所だけに、神森武の部屋からもここは見えない。だから、それで良かった。
しかし――――
バッ。
突然、神森武の部屋の障子の影が色濃くなると、思い切りよく開かれた。
思わず身が固まってしまった。驚いたなんてものではない。心の臓が大きく煽り、喉から飛び出しそうになった。
だが、訓練された体は慌てて動いたりせず、すぐに気配を周りに同化させていく。
障子を開いた神森武は、自分の部屋の前の庭を睥睨するかのように睨めまわすと、夜空を見上げて呟いた。
「……すごいね。大したもんだ」
間に合わなかった?
気付かれてしまったのかと焦る。以前未熟と告げられた事を思い出し、カッと頬が熱を帯びた。
誘われている……。私を煽って、諦めて出てくるのを待っている。
そう思った。
だが何度も修羅場を潜った経験が、私を短い時間で冷静にしてくれた。
敵は神森武――――心乱したまま何とかなる相手ではない。このままでは一方的にやられる、と。
すると、自分が勝手に慌てていた事に気付く。少し恥ずかしい。
神森武は、庭を自分の所から見える範囲で端から端に一巡り眺めた後、夜空を見上げた。今も見上げたままだ。そして、そのまましゃべっている。
つまり、場所までは特定できていないという事だ。特定できていたら、『私』をまっすぐに見据えて話しかけているだろう。
『虫の知らせ』なのだ。勘という奴である。
私も何度か経験がある。根拠も理由もなく『感じ』て危険を躱した。そしてそれによって、今私は生きながらえている。
多分神森武も、その虫の知らせを聞いたのだ。元々勘のいい神森武の事、十分にありえる事だ。
私も、さっき見回りに見つかった時のような間抜けな事はしていない。気配を漏らした覚えがなかった。
なのに神森武は警戒している。
つまり、私はまだ見つかっていないのだ。神森武は自分の勘を信じて、『探って』いるのである。
危うく引っかかる所だった。
それに気付くと、どっと嫌な汗がにじみ出てきた。もし反射的に言葉を発していたり、動いたりしていたら、終わっていた。
それにしても、神森武――なんて鋭い感覚の持ち主なんだろうか。以前の天井裏の時といい、あの狩りの時の事といい、はっきりいって異常である。鋭いなんてものではない。忍びでも、ここまでの者はちょっと知らないくらいだ。
常態の私がしっかりと忍べている状態で何度も勘づかれるなど、あり得ないのだ。そう言い切れるぐらいの自信はある。これでも隠行は得手としているし、専門なのだから。
まあ、先程見回りを相手に間抜けを晒したばかりだが、今回はそんなのとは訳が違う。私は気配を漏らした覚えはないし、周囲の雰囲気にしっかりと溶け込んでいた。
それでもなお、察知されたのだ。
神森武恐るべし。この男を褒め称えるしかないだろう。
神森武は今も、まるで自分自身を寄せ餌にするかのようにして差し出している。夜空を見上げたまま、無防備のままの体を晒し続けていた。
やはり、はっきりと見つけられた訳ではなかったようだ。感じられてはいても、見つけられてはいない。
その証拠に神森武は、私が乗ってこなかったせいか、微妙に自嘲するような笑みを浮かべていた。
どうやら、乗り切ったようだった。
だがその時、
「もし……武殿? まだ起きておられますか?」
と神森武を呼ぶ声が聞こえてくる。
菊姫?
部屋の中――というより、館の内廊下の方だろう。あたりを気遣うような顰めた声だった。
一難去ってまた一難である。
だが、すぐにその考えを改めた。考えようによっては私はツイているのかもしれないと思ったからだ。神森武が一人でいては何かを聞く事はできないが、誰かが一緒にいれば会話が生まれるのである。
しかし実際は、ツイているどころではなかった。まるで、今日のこれまでの不運を埋め合わせるかのように、青々しくも焦れったくなるような逢瀬が目の前で繰り広げられたのだ。
やはり、店にやってきた時に感じた通り、菊姫は神森武に気があったようだ。そしてそれが育ったのか、当時からすでに育っていたのかは分からないが、いま目の前にいる菊姫からははっきりと神森武への恋心……いやもうすであれは慕情だろう、それを感じる。
ただ……神森武は勘づいていなかったようだが。
あれだけ勘が良い神森武が、こうも鈍かったというのは意外も意外だった。人間分からないものである。
ただいずれにしろ、鈍い神森武も菊姫の度重なる誘いに流石に気付いて、それに応えていた。今までがどういう関係だったかは私には分からないが、結果として二人は、今この時より『そういう』関係になったのだという事は、はっきりと分かった。
その裏付けが、これ以上なくはっきりと取れたというのは、大収穫である。初心すぎて、思わず拳を握って『そこだっ!』と叫びそうになるほど楽しませてももらったが、まあ、それは別の話だ。
二人は今、外廊下に並んで座っている。
菊姫は肩を抱かれて、とても幸せそうに神森武の肩に頬を寄せていた。口づけも、神森武が求める度に、頬を染めながらもそっと応えている。すでに三度ほど唇を合わせていた。
見ているこちらが恥ずかしくなってくる程に、甘い世界が広がっていた。
そんな二人を見ていると、心温かくなってくる。
だが、私は忍び――もう一人の自分を持っている。その私は、二人を見て冷たくニヤと笑っていた。