幕 鬼灯(三) 祭り?
「美空。煎茶五つに、焼き団子五皿ね」
店の奥に向かって私がそう叫ぶと、厨の入り口にかかっている暖簾がちょいと持ち上げられた。ひょこりと銀杏が顔を出す。そして、コクリと頷いた。
この娘がその気になれば、いくらでもどんな風にでも演じられるのだが、地はこうだ。
『葉月と美空』の時だけでなく、『鬼灯と銀杏』の時もこうで、仕事の時以外は自分を崩すような事はほとんどない。
私の下に配されたばかりの頃は、それで困ったものである。だが、一緒に仕事をしているうちに慣れた。今では、銀杏が『仕事』をしている所にこそ違和感を覚えるくらいだ。
そして、そんな少し変わった所のある銀杏だが、どうも神森武を気に入っているようである。何が琴線に触れたのかは分からないが、その振る舞いにはっきりと出ていた。
あの娘も、年こそ若いが仕事を任されている一人前の忍びである。仕事は仕事で割り切っているから何も問題はないと言えばないのだが、神森武が店にやってくると、さりげなく奥から出て来て接客をする。私や紅葉がすでに応対をしていても出てくる。
あまり他人に興味を持たない銀杏にしては、実に珍しい行動なのでとても分かりやすかった。と言っても、無口で無表情の地を剥き出しにしているので、誰の目にも分かりやすいという訳ではない。ぱっと見は、そうは見えないだろう。
でも、あの娘を知る人間にとっては一目瞭然だった。そもそも、あの娘が『素』の状態で他人に接している事自体が特別なのである。
そんな事を考えているうちに、茶と団子を人数分載せて、銀杏が厨から出て来た。
まだまだ娘にもなれていない子供の体つきをしている銀杏だけに、それだけの物を載せた盆を持てば、一見危なっかしく見える。
だが、あの娘はくの一なのだ。あの程度の事は朝飯前である。
銀杏は神森武ら一行のところまでやってくると、運んできた茶やら団子の皿を配り始めた。私も手伝うが、三浦与平やら太助やらの方を担当した。折角の銀杏の楽しみを、無駄に邪魔しなくてもいいだろうという――まあ、上役としてのささやかな気配りである。
だが、そんな私の心遣いをぶち壊しにする奴がいた。誰あろう、神森武である。相変わらず、私の乳に視線が張り付いたままだった。
銀杏は……まあ、そりゃ気がつくだろう。只でさえ人を見るのが得意な銀杏なのだ。これだけあからさまなのに、気がつかない訳がない。
あちゃあ。面白くなさそうだ。
表情自体は全然変わっていない。だが、なんとなく分かる。気配が漏れていた。
可愛い焼き餅で、恋愛感情などではないだろう。構ってもらいたいのに、その人は他所を見ている――嫉妬。そんな所だと思う。
この娘があまり見せない、年相応な姿だ。
「……ん」
そんな事を考えている間に、銀杏が実力行使に出た。
神森武の視線を遮るように、団子の皿を突き出したのである。
思わず声に出して笑ってしまいそうになった。少し危なかったかもしれない。
だがそれによって、ようやく神森武の目に私の乳だけでなく、銀杏の姿も映ったようだった。銀杏も満足そうだ。
その後は、何やら思案げに銀杏の胸を見つめて、父性溢れる温かい目をしていた神森武を軽くからかい、程よい頃合いをみて銀杏と共にその場を下がる。
お客が親しみを感じてくれる所までは近づくが、それをお客が煩わしく感じる前に離れる。そうすれば、お客にとっては、そこは居心地の良い場所になる。そうして、また店にも来てくれるのである。
客商売の基本だった。
それに、側にいてこそ聞ける話もあるが、側にいないからこそ聞ける話もあるのだ。
店の奥へと下がってくると、他の客への接客は銀杏に任せて、私は裏口へと急ぐ。外席に座る神森武らの口を読むには、道向かいの店の陰にでも隠れるしかないのだ。
神森武……意識してかどうかは分からないが、本当に厄介な奴だった。
常識的に考えれば、本当に重要な話は自分たちの領域――例えば神森武ならば水島の館でしか話さないものである。話が漏れる事を警戒するからだ。
またそこまでの話ではなくとも、神森武のような立場の者たちは様々な不都合を廃したり、身の安全を確保する為に、なるべく周囲から隔絶された環境を望む。
例えばそれが、このような茶店であってもだ。
普通ならば個室なり、一番奥の席なりを所望するだろう。個室などの方が、隔てる物のない場所よりは、他人に話を聞かれづらいからだ。
もっともそれは、一般的にはという話である。ここは忍びの絡繰り屋敷であり、私らはくノ一である。私たちにとって、この『店の中』の話を盗み聞く事など、どの場所であろうと訳もない。だから、私としては個室を用意してくれと言って欲しかった。
だが、神森武はいつまで経っても、それを言わない。その気配もない。それどころか、普通の茶店のように見せる為だけに用意している外席を、好んで使っているのである。あそこだけは、話に聞き耳を立て続けるのが難しいというのに、だ。
外席では話声を遮る物はない。しかし目の前を行き交う人々の喧噪で、声はかき消されてしまう。かといって、周りに何もないので、近づいて話を聞き『続ける』事も出来ない。不審に思われてしまう。
あの席は、そんな席だった。
神森武のような重要人物があの席を気に入るなどというのは、想定外すぎた。どれだけ変わり者なのだろうか。
神森武が私たちの正体に気がついているとは思えない。知っていたら、私たちはとっくに御用になっているか、もっと偽情報を掴まされている筈である。だから神森武がどれ程に頭が切れようとも、私たちへの対策としてやっているなどという事は考えにくく、ただ単純にあの男の嗜好だけで、私は今こうして苦労させられているという訳である。
やってられないとは、正にこういう事を言うのだろう。
そして今日も、接客をした後にこうして走らされていると……。
大急ぎで裏口から出る。そして、わざわざ街角を大きく回り込んで、道向かいの店の陰に隠れた。
目の前にある身の丈を大きく越えるほどの竹材の束の隙間から、店頭に座っている神森武一行の口元を確認する。
うん。今日も大丈夫。全員よく見える。
口を読むのに不都合はなかった。日によっては置いてある竹材の具合で、隙間から覗く事が出来なくなるのだが、今日は問題なさそうだった。
とはいうものの、読んだ口の動きから分かった事は、まだ買い物を続けるの続けないのといったどうでもいい話だった。
まあ、情報収集なんて大抵こういう物ではある。話を盗み聞くのに大変な苦労をさせられても、聞きたい話は聞けないという事の方が多い。いや、もっと正確に言うならば、聞ける事など希と言うべきだろう。
だから、ヤレヤレと言った気持ちにはなったが、特に気にもならなかった。
今日は収穫なし……か――――
と一息つこうとした。
だが、その直後の神森武の一言から、風向きは変わった。
「……ま、何をするのかは、商品……ってか料理に、もう少し目処がついたら発表するから、こうご期待ってところだな。楽しみにしていろ。つか、お前らは強制参加だから、遠からず分かる。安心しろよ」
こんな時期にいったい何をしようというのか。
私が言うのも何だが、私や同影の工作のせいで水島はそれどころではない筈だろう。そもそも家老ともあろう者が、大根やらゴボウやら芋などを積んだ荷車を押して町中をウロウロしなくてはいけない用事ってなんなんだ。おかしいだろう。商品? 料理? 神森武は一体何を考えているんだ。
困惑する思考を宥めながら、私はわずかばかりも見逃すまいと、彼らの口元に集中する。
「『祭り』をするそうですよ、与平さん」
すると、割とあっさりと神森武が何をしようというのかが分かった。三浦与平が、何に強制参加させられるのか教えろと神森武に問うたところ、八雲が横から答えたのだ。
ただ……である。
祭り?
これだった。本気で訳が分からなかった。
神森武ほどの男が、今がどういう状況なのか分かっていない訳がない。なのに……。
いや、そもそも水島家自ら取り仕切らねばならない祭事など、この辺りにあっただろうか。
私の思考の混乱は、止まるところを知らなかった。段々頭が痛くなってくる。
だが『祭り?』という疑問には、神森武自身がこれ以上なく明確に答えてくれた。
『千賀が祭りに行きたいと言い出してな』
だそうである。
あはは。そうかいそうかい。千賀姫がお祭りに行きたがったのかい。そりゃあしょうがない……訳ないだろうがっ。
巫山戯んじゃないよっ。私らがこんなに必死になってやっているというのに、あんたにとってそれは、幼い姫の我が儘に劣るというのかいっ。
冗談じゃなかった。
でも一通り怒りを覚えてみた後、今度は寒気に襲われた。
なぜなら、そう言っている人物が神森武だという事を思い出したからだ。その辺りにいる世間知らずの武家の小倅ではないのである。
あの神森武が事の軽重も計れない?
あり得ない。それこそ、私があの男を舐めすぎている。
その事に気付いたのだ。
そもそも今の藤ヶ崎勢は、国力的には決して十分な存在ではない。水島としてですら分裂している状態なのだ。惟春はもちろん、継直のところよりも弱小なのである。
しかもその二勢力から、藤ヶ崎は明確に狙われている。塩止めの件だって、もうとっくに誰がやっているのか気付いている筈である。だから、継直だけでなく金崎にも、今も狙われている事を彼は知っている。
そんな状況で祭り? まともではない。馬鹿でもなかなかやれないだろう。
では、なぜ神森武はそんなに余裕でいられるのか。
決まっている。あの男の中では、現状の処理に関して、すでに目処が立っているからだ。そして、それによって何とか出来る自信があるからこそ余裕でいられるのである。
私は、すぐに気持ちを入れ替えた。馬鹿みたいに頭に血を上らせている場合じゃなかった。
今まで以上に、彼らの口元に集中する。