幕 鬼灯(三) 水島家復興の兆し
神森武の命令通りに、隊は北門を離れて水島の館へと向かう。一行から離れて、私もその後を追った。
館へと向かう道中、隊列に気付いた物見高い野次馬たちが「なんだなんだ」と様子を見にでてくる。町の中心に近づくにつれて、その人数はどんどん増えていった。
そして、その隊列が神森武のものだと知ると、皆が歓声を上げた。
ただ、その名を知る者は多くとも、その顔を知る者は少なかったようである。皆が想像していたよりも、ずっと若かったようで、目の前の人物が神森武と分かると、そこかしこで驚きの声が上がっていた。
まあ、気持ちは分からなくもない。神森武のなした功績は、ちょっと他に類を見ない物だ。姿を知らない者が、その功績だけを聞いて人物を想像すれば、十中八九それなりに酸いも甘いも味わった経験豊富な人物を思い浮かべるだろう。
そのせいか、ちょっとした騒ぎになっている。
もっとも、私にとっては望ましい状況ではあったが。一行の後をつけるのが、非常に楽になった。
それにしても……この町での神森武の名は本当に高まってきている。このままいくと、遠からず永倉平八郎にも並ぶような存在になっていく事だろう。
少し考えさせられる。
もうすでに、佐々木伝七郎ともども水島家の若き支柱への道を歩き始めていると言ってもいい。
ただそれは、惟春にとっても、継直にとっても――つまり私にとっても、あまり好ましい事ではない。水島家の体制が、ますます盤石になっていくのが見える。
すでに今の時点でも藤ヶ崎の守りは固められつつあり、四方の砦の改修も進んでいる。北と東に関しては、特に作業が進んでいるようで刻一刻と堅牢になっていっていると報告を受けている。東の砦は、実際に私らが攻めたのだから当たり前の事ではあるのだが、藤ヶ崎は明らかに、継直に対してだけでなく金崎に対しても一級の警戒心を抱いている。
それに加えて、今回の二水の件だ。あれで、水島の金崎に対する警戒は更に強いものとなるだろう。
このうえ家中まで、どっかりと礎を固められては、いよいよ手の付け所がなくなっていく。
それに、最近の水島の急激な変化は、国防などの軍務や人事だけには止まっていない。
佐々木伝七郎や神森武が、この町にやってきてすぐに始めた『戸籍』の作成や、『検地』などもすでに終了しているようだ。
その効果だと思うのだが、目に見えて領内の治安も良くなってきている。『戸籍』が出来たせいで、外からきた者がはっきりと分かるようになり、領内で暗躍する事が非常に難しい状況だ。同影も、塩止めをする為にかなり苦労させられていると、この前きた書状で愚痴のようなものを漏らしていた。
それに、今年の年貢の徴収は随分と楽だったと聞く。百姓たちも隠す事は無理と悟り、無駄な抵抗をしなかったようだ。それにまた水島の方も、無体な取り立てを行わなかったらしい。おそらく大体の収穫量を把握できていた為だろう。正直これは、実に画期的な政策だったと思う。収穫量がおおよそでも予想できていれば、統治者側の考え方一つで民を生かせも殺せもする。そして水島は、民を生かす方を選んだのだ。
検地を始めた当初、無理やり盗られる事ばかり心配していた百姓たちからも、今では喜びの声が上がっている状態だ。
伏龍、鳳雛の二つ名は伊達ではなかった。その知謀は、戦以外の事にも存分に発揮されているのである。
藤ヶ崎の国造りは、着々と進んでいた。
すでに、真っ当に倒すには、それなりの犠牲を伴う程になっていると思う。……残念な事に、我が主はまだそうは思っておられないようだが。
継直が大人しくしているのは、おそらくはあの者もそう思っているからだ。しかし、惟春は未だ釣られている。同影自身はもちろん分かっているだろうが、それを隠した彼の言葉に釣られているのだ。もうすでに容易ならざる相手となっているというのにだ。
だが……。
まだ手は残っている。蟻の一穴……『蟻』。継直は私の事をそう言って警戒した。その通りだろう。私は、継直に対して穴を掘っている。
そして、藤ヶ崎に対しても掘っている。
善政を敷き、堅実に国力をつけていっている水島を倒すには、もうこれしかないと思っているからだ。これで倒せなかったら、私にはもう打つ手は残っていない。まさに奥の手である。
だから、今はじっとしていよう。『その時』がやって来るまでは。
機は必ず熟す。それまでは、只じっと耐えて待とう。その穴が広がり育つのを見守りながら、じっくりと眺めて待つのだ。
私はそんな事を考えながら、道端の野次馬たちに紛れ、一行につかず離れずの距離を保ったまま後を付いていった。
神森武が過ぎた後でも、野次馬たちは彼の話題に興じている。
「凄い事をやったと聞いたけど、随分とお若い方だったのね」
私と同じくらいの年頃の女が感心したように言えば、
「ものすごく頭が切れるらしいぞ」
その連れ合いの男が、そう答えている。
「素敵……」
まだ年若い町娘が、そう言って体をくねらせれば、
「女はすぐこれだからな」
その弟と思しき少年が、生意気そうな顔で娘をからかった。
「放っておいてちょうだい。嫌な子ね」
噂話で聞いた英雄譚と、今見たばかりの若すぎる英雄の姿に、庶民は飾らず思ったままの言葉を口にし、それぞれが思い思いに噂話を楽しんでいた。
しかし、どの口も大なり小なり神森武を称えている。
まあ、当然だろう。それだけの能力を実際に持っているし、それだけの実績もあるのだから。
いつも茶屋で、私の乳を見てはだらしなく顔を緩めている姿や、色男に嫉妬している姿を見せてやりたく思うが、そんな彼の実態を知ったら皆は呆れるだろうか。それとも腹を抱えて笑うだろうか。
私は野次馬たちの噂話に耳をそばだてながら、歩く速さはそのままに、神森武一行の後を追い続ける。
こんな愚にも付かない事を考えているのも、昨日今日と神森武によって潰された二水の報告を受けて心がささくれだっていたからだろう。
それには自分でも気付いていたが、それでもそんな妄想をする事で、少し溜飲が下がったのも事実だった。
そうこうしているうちに一行は市街地を抜け、武家町に入る。
ここまで来ると野次馬はいなくなる。私は再び、神森武らから少し距離を取った。
この辺りも、一時に比べると随分と人が増えている。
少し前までは、この町の住人が藤ヶ崎を捨てて継直の元に走ったせいで、人住まぬ廃墟のようになっていたのだが、佐々木伝七郎や神森武がやってきてからというもの、急速に息を吹き返しつつあった。
それどころか先程通った市街地同様に、荒廃する前よりも、むしろ活気づいている気さえする。
多分、今の水島の連中がきちんと治めているおかげだろう。
やはり、時間の経過と共に刻一刻と手強くなっていっている。何を見ても考えても、同じ結論しか出てこない。
『時』が来ても、ただそれだけでは落とせるかどうか……。
そんな不安さえ覚えた。
時を待つにしろ、作るにしろ、その前に一度里の長に相談した方がいいかもしれない。
そんな考えが、ふと脳裏を過ぎった。
その瞬間、そんな弱気な事でどうすると自分を叱咤しようと思った。が、後ろ向きな感情ではなく、その案も存外悪くないと思い直す。
うん、そうだね。それも悪くない。
少し向こうで揺れている荷駄の荷物を眺めながら、近いうちに一度神楽の里に戻ろうと、そう決めた。
その後も館まで後をつけたが、本日の偵察はそこまでとした。
神森武は水島の館に到着すると、太助らを連れてすぐに館の奥へと入っていった。鳥居源太が残って荷下ろしや、その他の雑務を片付けていたのだが、そこに他の部将らや、果ては永倉平八郎と佐々木伝七郎が連れ立って現れた為に、その部下たちも合わさって、館の門周辺に人が溢れかえってしまった為だ。
そんな状態で、密かに探り続ける事など不可能だった。かといって、館内に潜り込む訳にもいかなかった。真っ昼間からそんな怪しい事をしていたら、すぐに見つかって追っ手をかけられて終わりである。
もっと知りたかったし調べたかったが、その為に見つかったり捕まったりしたら目も当てられない。それにあわよくば有益な情報を得たいとは思ってはいたが、明確な目標を持って後をつけていた訳でもなかった。
だから、引く事にしたのである。
私は、鳥居源太の元から永倉平八郎と佐々木伝七郎が離れる所までを見届けて、茶屋へと帰る事にした。