幕 鬼灯(三) 神森武の帰還
暗いところから急に明るいところに出てきたせいで、少し眩しい。目を細める。
真っ昼間に隠し部屋に入ると、いつもこうだ。隠し扉より出て来た所で、そのまましばらく立っていると、すぐに慣れてきた。
その後に店の方へと向かう。今日も三幻茶屋はよく繁盛していた。常連の者たちの顔もあるし、初見の客の顔もある。男と女の数も同じくらい。話を集めるにはいい環境と言えるだろう。ただ茶店の客で、男と女の数が同じくらいというのはどうなのだろうかとは思わないでもない。
大通りにある条件の良さもあるだろうが、店としての評判もまずまずといった所なのは間違いないだろう。上出来だった。慎ましく生活する限りにおいては、普通に店の収益で食べて行けそうなくらいである。
もっとも、それは望むべくもない事だが。
皆で協力し合ってなんとか食べているような状態だ。私たちだけが勝手な真似をすれば、それだけでも里にとって大変な痛手となる。
里の秘密を守る為という大義を掲げてはいるものの、抜け忍を許さずという掟は、おそらくこちらの理由の方が本命だろう。働けるようになった者が好き勝手に出て行ってしまったら、里は収入を得る術を失い、里の者皆が食えなくなってしまうから。
だから勝手に抜けたりすれば、間違いなく里から追っ手を差し向けられる。
抜け忍になって日々追っ手の影に怯えて暮らすのは、たとえ毎日の糧に困らなくても、とても辛いものになるだろう。
行くも引くも地獄だねぇ。
自嘲の笑みが漏れかけた。しかし軽く頭を一つ振り、止まる。後ろ向きになりかけた心に、無理やり前を向かせた。
いや、上を見ればキリがないさね。人並みの幸せなど、とっくに諦めた身だしね。
まだ私たちは幸せな方なのだ。一体どれだけの小さな村や里が飢えで滅んだ事か。藤ヶ崎で暮らしていると、比べた金崎の統治の酷さに今の自分を見失いそうになるが、それでも奴らは、私たちに日々の糧を得る為の金子を与えてくれている。多くの里は、それも得られずに滅んでいったのだ。
それは、一にも二にも神楽の里が忍び家業をしていたおかげだった。
ずっと前の里の長が、やはり食うに困って始めたらしいが、それが今でも里の者の命を守ってくれている。代わりに里は金崎への協力を強要されているが、里ごと飢え死にするよりはずっとマシである。
店の中で楽しそうに談笑している者たち、店前の大通りを行き交う沢山の人々――――恵まれた国の恵まれた人々を見ながら、ついついそんな事を考え込んでしまった。
だがすぐに、自分が何とも言えない微妙な表情をしている事に気付く。
いけない、いけない。
景気の悪い顔をしたまま店に出る訳にはいかない。私は自分の顔をパンッと一つ叩いた。
そしてそんな時に、店の奥――こちらから一番近い小上がりに、並んで座っている若い侍二人の会話が聞こえてきた。
「なんでも今日、神森様らがお戻りになるらしいぞ」
「どこでそれを聞いたんだ? 確か神森様は、二水に塩を買い付けに行っていたんだよな?」
どうやら、館勤めの者たちのようだった。
「ああ。最近塩の値がびっくりする程上がっているからな。なんか賊が出ているせいらしいが、迷惑なんてもんじゃあないよ。荷が入ってこないせいで、酷い事になっている」
真面目そうな顔つきをしている方がそんな事を言い、憤慨しながら荒っぽく団子にかじりついている。
「ばーっと、倒しちまえばいいのにな」
もう片方は、まるで他人事のように適当に話を合わせているような感じだった。
「馬鹿だな。それが出来るなら、もうとっくに片付いているだろうよ。神出鬼没らしい。永倉様や、佐々木様も毎日頭を抱えていらっしゃる」
「へー、随分と面白い事になってたんだな。俺はずっと西の砦にいたから、今一要領をえない噂話しか聞いてないが」
「まあ、確かに戻ってきてまだ二日だが……そんなに遠方の話じゃあないぞ? 西の砦まで、たった一日じゃないか。お前の緊張感が足らないだけだ」
「お前は昔っから真面目すぎるんだよ」
どうやら昔なじみの二人らしいが、まあよくこれだけ性格が違って互いに付き合えるものである。
それにしても、下の認識はまだこんなものなのか。
そろそろ民の実生活の方に影響が出始めてきたかといった程度で、まだまだ水島家には余力がありそうである。
まして二水の件で、更にその余力を増やしてしまっている。塩止めは、まだ完全に失策とまではいっていないものの、謀として完了するのは、まだまだかなり先になりそうだった。
そんな事を私が考えている間も、二人の話は続いている。
店の仕事をしている振りをしながら、私は二人に近づく。そして、その会話に耳を傾け続けた。
「まあ、何にせよだ。塩を買いに行っただけにしては、もう随分と経っている。きっと向こうで何事かあったのだろう。町の現状を見ると、うまく買えているといいのだが……」
「二水は、昔『塩の町』なんて呼ばれていたくらいだから、大丈夫なんじゃないか?」
その後も、二人は団子を頬張り茶を飲みながら話を続けていたが、話題が今晩呑む酒の話に変わってしまったので、私は二人の側をそっと離れた。
とりあえずは十分だった。このところ碌な話がなくて鬱々としていたが、少し面白い話を仕入れる事が出来た。今日、神森武が戻るらしい。
「由利~?」
「なあに姉さん」
先程までとは違う茶屋娘らしい明るい表情で、厨からひょっこり顔を出す紅葉。
「ちょっと用事があって出かけてくるから、お店の方はよろしく頼むよ」
「戻りは?」
「ちょっと分からないけど、多分夜までには戻る」
「分かったわ。お店の方は任せて。気をつけてね?」
「はいよ」
それらしい会話で要点だけを確認し合うと、私は準備をして三幻茶屋を後にした。無論、神森武の様子を見て、必要ならばそのまま探る為である。
北の門へと向かい、門からの一本道で待ち伏せる。勿論、門の手前辺りにある建物の陰に身を隠して、だ。
門まで行ってしまうと、そこで待ち伏せる事はできない。目立ってしまう。場所が場所だけに、いつものように客引きをする訳にもいかないからだ。北の門から三幻茶屋は遠すぎるのである。不自然だった。
だから、身を隠せて、北の門から町に入ってきた者を見逃さない場所で張るのである。
今は、昼の九つが鳴って、すでに随分と経つ。八つが近い筈だ。
空を仰いで陽の位置を確認する。
天頂を過ぎている。昼過ぎ……やはり大体そんなものだろう。
そして、建物の陰で息を殺しながら待った。
仕事柄待つのには慣れた身だが、早くどうなっているのか知りたいと思う気持ちは、やはりある。
早く来い。
そう焦れながら、かといってそれを気配に出すような事はなく、なおも静かに潜み続ける。
だが、それ程待つ事もなく、目的の人物は到着した。
「無事の到着でござーい。やっぱ近いようで遠いな」
隊の先頭付近で、神森武は暢気な声を上げていた。
そんな神森武の周りでは三人の少年と一人の少女が、きょろきょろと物珍しそうに周りを見回している。
「これが藤ヶ崎かあ……。やっぱ二水とは随分違うなあ」
あれは……為右衛門の息子の太助だね。
あの書状にもあったが、完全に藤ヶ崎に付いたようだね。
為右衛門の屋敷で、為右衛門との密談中を盗み聞きしていた顔だった。知らないとはいえ、忍びの話を盗み聞こうとは大胆なものだと、あの時は笑わせてもらったが、先は分からないものである。実に大層な事をしでかしてくれた。
「すごい……」
「聞いてはいたが、見た事はなかったからなあ……」
「凄く人が多い。そもそも町の大きさからして違うね」
太助に寄り添うように隠れている少女は、おそらく茜という娘だね。よほど人の多さに驚いたようで、目を白黒とさせていた。
残りは……。
一人はやや太助には見劣りはするものの、顔つきを見る限り、年齢的には十分以上に立派な体躯を持った少年である。もう一人は、娘のような綺麗な顔つきをした少年で、こちらはかなり線が細い。
報告書に書かれていた特徴にも合致する。まず間違いなく、吉次と八雲だろう。
神森武の周辺で変化した部分について、一つ一つ確認していく。こういった事の積み重ねが仕事を成功させてくれる。時には命さえも助けてくれるのだ。
私は今までに、嫌と言う程それを学んでいた。だから、地道な作業ではあるが、手を抜くつもりはなかった。
「お前ら。お上りさんよろしく、キョロキョロしてんな。このまま館に向かうぞ」
神森武が、四人に向かってそんな声をかけた。
そんな五人とは離れて、鳥居源太は部下たちに、何やら細かい指示を出しているようだった。
そちらの方へと視線を向ける。
いま鳥居源太は、部隊の最後方にいる三台の荷車の辺りで、そこの兵に向かって何事かを話している。残念ながら声は届かず、背中を見せている為口元を読む事も出来ないが、兵に某か命じているのだろう。
その内容を知る事を諦め、私は荷物の方に視線を移す。
三台の荷車には、俵が山積みされていた。十中八九、塩俵だろう。
ちっ。
思わず舌が鳴る。
結構な量を持ち込まれてしまった。領全体を賄う事を考えれば、大した量ではないとも言えなくもないが、それでも少ない量ではない。それに、当然これで終わりではないのだ。なにせ製造元を押さえられてしまったのだから。
このままでは不味いね。塩止めだけでは藤ヶ崎の連中を干上がらせるのに時間がかかりすぎる。何か他に手を考えないと……。
自分たちのなした仕事に誇らしげな顔をしている藤ヶ崎の兵たちを眺めていると、そんな焦燥感を覚えずにはいられなかった。