第百九十一話 甘い唇 でござる
グビリ……。
喉が鳴った。その時に喉がひりつき、カラカラに乾いていた事に気づく。それと同時に、さっきからずっと、目の前の彼女は俺の杯に酒を注ぎ続けていただけだった事も思いだした。
その酒が注ぎ続けられた杯も、今では俺の手の中で半乾きになっている。
俺は一つしかない朱色の杯の縁を持ってヒラヒラとさせながら、
「あ、ああ、そうだ、お菊さん。さっきから俺が注いでもらってばかりだったよね。よかったら、どう?」
などと尋ねてみた。流石に無理だと思いながら。
こんな夜更けに、男の部屋を訪ねて酌をしているというだけでも、彼女の性分を考えれば随分と『らしく』ない行動だと思う。そのうえ酒を、しかも一つの器で酌み交わそうなど、ありえねぇ……と、まあそういう訳だ。
慎み深い彼女にしてみたら、とてもウンと言えるような内容ではないだろう。
だが、この場の何とも言えない妙な空気を変えるぐらいの効果はあると、俺は踏んだのだ。だから言った。
しかし彼女は――――、
「…………そうですね。では、いただけますか?」
頬に手を当て少し考えるような仕草をした後、ニコリと微笑んで俺の手から両手で杯を受け取った。
「…………」
うそーん。
予想外すぎた。俺が口をつけた杯を受け取る仕草にも、まったく躊躇う様子がない。
俺氏、大混乱である。いや、マジで。
とは言え、いつまでもアウアウしている訳にもいかない。いくら俺でも、それがマズすぎる事くらいは分かる。
俺はすぐに、床に置きっぱなしになっていた銚子に手を伸ばした。その時に互いの膝がコツリと軽くぶつかり合う。
もう、それだけで俺の心臓は激しく脈打った。
今の俺は、いつもにも増して彼女にやられっぱなしだった。もっとも、一瞬たりともそれが不快だなどとは思わなかったが。
「さ、ご返杯。どうぞ」
「有り難うございます」
そう言って彼女は、その手の杯をこちらに寄せてくる。
その時に、
チラリ――――
彼女の顔を盗み見た。
そして、気がついた。
明かりは、俺の部屋にある行灯の薄明かりしかない。あとは月明かりのみだ。
そのせいで、今の今まで気がつかなかったのだ。その頬に、うっすらと赤みがさしていた事に。
それを見て、俺はようやく知った。『厚意』なんかじゃあなかったんだと。
まさかと思った。あり得ないと思った。でも、そうとしか考えられなかった。
自分で勧めておいてなんだが、断られて当然だったのだ。
ちょっと、いやかなり固い彼女の性格を鑑みると、そうでなくてはおかしいのである。彼女のような女が、こんな不用心な事をするだろうか。どう考えても、某か意図する所があるとしか思えない。それを伝えていると考える方が、余程に理解が捗る。
普段の言動から考えても、こういうのを良しとするタイプでは絶対にないのだから。
そんな彼女が、この状況でこの提案を受け入れるとしたら、『そう』としか考えられなかった。
勘違い……いや、それはないだろう。俺が女の気持ちに通じているなどとは思えないが、これだけはなぜか間違えていない気がする。
そう思ったら、先程までとは比べものにならない程に心臓が高鳴り始めた。
歓喜、恐怖、卑屈……様々な感情がうねり、渦を巻く。決して暑くはない筈なのに、額、手の平と言わずジワリと汗が滲み出した。
それでも俺はただ黙たまま、お菊さんをずっと見つめ続けていた。そんな俺の視線を受けても、彼女はうっすらとした微笑みのみを浮かべたまま、まったく動じない。
しかし少しして、
「武殿?」
と小首を傾げて見せた。
多分、気を遣ってくれたのだろう。何も気がついていない振りをして、そう尋ねてくれたのだと思う。俺の為に。
駄目だめすぎる。ここは男ならビシッと決めないといけない所だ。それに女の立場からしても、ここだけはきちんと決めて欲しい筈。
ぼうっとしてちゃ駄目だ! 働けよ、俺の頭。動けよ俺っ!
自分をこれでもかと叱咤激励する。乾いた喉に、もう一度唾を無理やり通した。そして、
「う、うん、ああ。なんでもない。さあ、どうぞ」
なんとか体裁を取り繕って、俺は笑顔を無理やり作った。多分歪だろうが、それでも今の俺にできる精一杯で応える努力をしてみた。
そして、引き寄せられ持ち上げられたままになっていた銚子を傾け、彼女が差し出している杯に酒を注ぐ。
トクリ、トクリ……。
お菊さんは、酒を注ぎ終わった俺が銚子を杯から離すのを見届けると、普段は見せないなんとも蠱惑的な眼差しを俺に向ける。そして、そっと手の中の杯に口をつけた。やはり、まったく躊躇いを見せる様子もなく。
コクリ、コクリ――――。
すでに周りは寝静まり、シンと静寂に包まれている。杯を両手で仰ぐ彼女の喉が小さく鳴る音すらも聞こえた。
中の酒がなくなると、彼女はそっと朱色の器から口を離す。いつも艶やかなその唇は、白濁した酒に濡れて、行灯の薄明かりに微かに光っていた。
ゴクリ――――。
今度は俺の喉が鳴った。
「……美味しかった。ご馳走様でした。さ、お返し致します」
そんな俺の様子すらも、彼女は気付いているだろうにまったく気にしない。
彼女はほっそりとした指先で、杯の口をつけたあたりをツイッと拭うと、そのまま俺にその杯を返してきた。
ただやはり、その頬は赤く染まっている。
たった一杯。それも、飲んですぐのすぐである。酒のせいなんかでは絶対にない。それは明白だった。
やはり、そういう事なんだ――――
と緊張感は更に高まる。しかし同時に、今この時だけは何があっても転ける訳にはいかないという、強い想いも湧き起こる。
それは、男としての矜持だった。
惚れた女にここまでさせておいて、そのうえ恥を掻かせるなどもっての他だろう。いくら非モテ街道まっしぐらだった俺だと言っても、それは情けないにも程がある。
俺に許された行動など、一つしかないのだ。
そう思ったら、なんか妙に腹が据わってきた。揺れっぱなしだった心が、収まるべき場所に収まったような、そんな気がした。
「ああ、うん。有り難う」
俺は手に持った銚子を、わざと胡座をかいた自身の膝のすぐ横へと下ろす。そして、彼女の差し出してきた杯を受け取った。
俺に杯を返すと、彼女は銚子を手にとる為に腰を浮かせて少し体を前に乗り出してくる。が、その時、
コンッ、カラン――――
音らしき音のない深夜の廊下に、俺が杯を落とした音が高く響き渡った。無論わざと落としたのだ。
「あ…………」
彼女は一瞬そちらに気を取られた。
その隙に、俺は彼女の肩に腕を回す。そして、少しばかり強引に彼女の体を引き寄せた。すると勢いの儘に、彼女は俺の腕の中へと倒れ込んでくる。
思いつくままにやってみたものの、喉から飛び出そうな程に心臓が躍っていた。胸元に抱き寄せたお菊さんにも、その音は聞こえてしまっているだろう。
でも、構わなかった。
抱きしめたその体は、想像していたよりもずっと柔らかい。驚きに体を強ばらせてしまっているのに、それでもなおそうだった。
一瞬のようで永遠の時間――――。
そんな時間が過ぎていく。
俺は彼女を解放する事なく、そのままギュッと強く抱きしめ続けた。でも彼女は、俺を突き飛ばそうとはしなかった。
単純な力は兎も角、彼女は俺なんかよりもずっと強い。やろうと思えば、いくらでも俺を御する事などできるだろう。でも、そうしようとしなかった。
俺も彼女も、そのまま固まってしまっていた。俺は、いや、多分俺たちは、時間の感覚を失ってしまったのだ。
だから、どれほど後の事かは分からない。
でもしばらくして、彼女の方が先に動いた。
俺に身を任せるように、その体の力を抜いたのである。まるで、すべてを俺の意思に委ねようとでもするかのように、そっと。
奇しくもそれは、俺が自分のやった事に自信が持てなくなりかけていた頃合いだった。
愛おしい。ただただ愛おしい。
恋情のようでもあり、獣欲のようでもある――そんな激しい想いが、心の底より次々と噴き上がってくる。
もういい。なるようになれだっ。
俺は、考えるのを放棄した。
胸元に頬を寄せていた彼女の顎に手を当てると、そっと上を向かせる。そして少々乱暴に、本能の命じるまま彼女の唇を求めた。
そこには、酒の甘味が少し残っていた。