第百九十話 祭りが終わって……でござる その二
トク、トク、トク――――。
差し出した杯に、お菊さんが酒を注いでくれる。
館の酒なので粗悪品ではないが、かといって以前に爺さんが戦勝の宴で用意したような超高級品でもない。偶に呑んでいる物と同じだ。ちょっと旨い濁酒である。
すでにもう何度も杯を呷っていた。ちょっと飛ばしすぎではないかというくらいのハイピッチで酒を喉に流し込んでいる。
今日の酒は旨い。本当に。
むろん製品としての味の話ではない。確かに元々の味もそれなりには旨いが、そういう事じゃあない。これ程、心に美味を感じさせてくれる酒もない――と、そういう事だ。
杯の底が何度朱色をむき出しにしても、側に寄り添うお菊さんが銚子を傾けてくれる。そして杯は、再び乳白色の酒で満たされるのだ。
その都度、彼女の動作に合わせて空気が動き、彼女の甘い香りが俺の鼻をくすぐった。
もう何度も、俺は正気を失いそうになっている。色欲、恐怖、焦燥感、矜持……あらゆる感情が入り乱れ、混乱しそうになったくらいだ。
多分俺がキョドっている事など、とっくの昔に彼女にもバレている事だろう。こうして自覚できる程だ。外から見れば一目瞭然の筈。
でも彼女は、時々面白そうにクスッと笑うだけで何も言わない。ただ黙って、何度も差し出す俺の杯にゆるりとした仕草で酒を注ぎ続けてくれた。
あー、どうしよ。ここは気の利いたトークをかまさねばいけない場面だ。が、まぁっったくっ何も思いつかんっ。いつもの事ながら、この頭は肝心な所でこれだから。
自分の頭を柱にでもぶつけて気合いを入れ直してやりたい衝動に駆られるが、それはなんとか堪えた。でも、心が嘆くのを止める事は出来なかった。目の前にお菊さんがいなかったら、俺は遠慮なく部屋の壁に穴を開けていた事だろう。
まあ、彼女がいなければ、こんな事態にもなっていなかったとは思うが、それはそれだ。
しかし、いつまでもこのままでいる訳にもいかない。部屋のあちこちに視線を飛ばす。藁にも縋る気持ちだった。兎に角、何か話を繋ぐネタはないかと。
キョロ、キョロ。
必死に探す。
そして、そんな俺を見てとうとう堪えきれなくなったらしいお菊さんが、プッと小さく噴き出した。
「もう、武殿。そんなにきょろきょろと姫様みたいに」
落ち着きがないという事らしい。満六歳の幼女と同じにされてしまった。
ただそれでも、クスクスととても楽しそう笑っている彼女の顔には何の含みもなさそうで、俺にはそれが救いだった。
どうやら嫌な気分にさせてはいないようだ。
それだけは分かった。しかし、それで十分だった。先程までの、早く何とかしなくては――という強迫観念にも似た感情から解放される。ガチガチに固まりかけていた体も解れた。
そうだよ。そうだよな。俺みたいな女経験のない奴が、いきなり百戦錬磨のイケメンみたくスマートに振る舞えるものか。そんなの、やろうとした事自体が間違いだったんだ。
自然……自然でいい。
そう悟る。
その間、そんなに長くはなかったと思う。
が、そうして俺の心が右往左往している間も、お菊さんは大層可笑しそうにしながら、まるでこちらが落ち着くのを待ってくれているかのように、ゆるりゆるりとお酌をし続けてくれていた。
黙って、こちらに合わせようとしてくれている。
それに気がつく。
思いっきり情けなさを覚えた。その一方、とてつもなく嬉しくも思えた。感動したとさえ言ってもいいと思う。
なぜならそれは、彼女が俺に歩み寄ろうとしてくれている事に他ならなかったから。
心に、先程までとは違う高揚が生まれる。
しかしそれと同時に、不思議と気持ちが落ち着き始めた。無様に混乱しているのを知ってもなお、見限らずに微笑み続けてくれている。その安心感のせいだろうか。
何にせよ、ようやく頭が少し前向きに動き始めた。
「あ、そうだ」
俺は、そう言って立ち上がる。そして目の前の障子を、徐に開けた。
そこには先程見たのと同じ、満天の星空が広がっていた。
俺の突然の行動に、お菊さんは『急にどうしたのですか?』と言わんばかりの表情で、軽く小首を傾げている。
「さっきまで見ていたんだよ。すごく綺麗だよ」
俺は障子の外の縁側まで出て、夜空を指差す。
彼女はそれを聞くと、銚子を脇に置いて腰を上げた。そして縁側に出てくると、まるで覗きあげるような仕草で星空を見上げた。
さらり――――。
その時彼女の肩から、背中まである艶やかな黒髪が流れ落ちる。
ようやく落ち着いたというのに、またもドキドキとさせられた。普段の彼女は清楚なイメージの方が圧倒的に強い。が、こういう何気ない仕草の中にはすごく艶がある。
「本当に綺麗……」
しかし彼女は、そんな俺の様子には気付かずに、星空を見上げたままだった。
よかった。今のうちにもう一度落ち着こう。
そう息を入れ直そうと思ったが、お菊さんはすぐに、無垢な感動を映していた表情から一転、真面目な表情を浮かべた。そして、
「こうして再び、夜空を穏やかな気持ちで見上げていられるなんて、富山から逃げ出した折には思いもしませんでした……」
と呟くように言った。
彼女は、そのまま縁側に膝を着き腰を下ろす。それを見て俺も、そのすぐ真横に並んで胡座をかいた。
するとお菊さんは、星空から視線を戻して俺の顔を真っ直ぐに見据えて言ったのだ。
「貴方のおかげです」
微笑んではいるのだが、なんとも言えない切なそうな表情だった。
俺はなんて答えればいいのだろう。突然の言葉に驚いたのも勿論だが、嬉しさ爆発、照れくささMAXで、うまく言葉が出てこない。
やばい。やばい、やばい、やばい。
でも、どうにもならない。口は上手く動かず、左右の手はそれぞれに、俺の意識の統制を離れて彷徨い始めている。
それでも彼女は、先程同様にまったく動じる素振りすら見せなかった。ただ真っ直ぐに俺の目をじっと見つめてきた。
このままでは、流石に男として立つ瀬がない。
せめて某かの反応をしようと、無理やりに口を開いてみる。
「あ、ああ。いや、俺のやった事なんてさ。ハハハ。うん、大した事ないよ」
馬鹿みたいに空笑いをしながら、そう言った。
自分でもどうかと思うが、真面目にそれ以外には何も思いつかなかった。男の立つ瀬とはなんなのかと言わざるを得ない。しかし、今の俺なりには頑張ったつもりだった。
でも彼女は、静かに首を横に振る。そして、
「いえ。貴方のおかげです」
と真っ直ぐに俺の目を見つめたまま、同じ言葉を繰り返した。
俺は、もうどうしようもなかった。彼女の真っ直ぐな視線に絡め取られて、その瞳から目を逸らす事もできなくなっていた。
「ああ、うん」
結局、彼女の真摯な視線に逆らう事はおろか、いつものように巫山戯てお茶を濁す事も出来ず、俺はそんな返事をする。それが精一杯だった。
その後、どちらからという事もなく再び星空に視線を移した。二人の間に静かな時間が流れる。その時間が、俺に再びの落ち着きをくれた。
星を見あげたまま、俺は口を開く。
「うん。そうだな。俺も頑張ったと思う。でも、皆で頑張ったんだよ。俺も、お菊さんも、千賀も、伝七郎も、信吾や源太や与平も、そして兵たちもね。その結果として、俺たちは生き延びた。でも、まだ終わりじゃない。今後も同じように、皆で生き残る」
「はい」
小さく静かにではあったが、しっかりと気持ちの入った声で、彼女は答えた。
チラリと、横目で彼女の顔を盗み見る。
彼女も星空を見上げていた。その横顔は、いつにも増して美しく見えた。